583+

[説明書き]
・幼稚舎時代、二人が知り合ったばかりの頃、という設定です。
・日吉くんのお兄さんがちょっとだけ出てきます。
・後半の中学生パートは淡い両片思いくらいのつもりで書いていますが、内容的に日→鳳の色が強めに見えるかと思います。

(弁論大会は11月らしいので、原作ではU-17合宿中ですが……パラレルワールド的な世界線ということでお願いします)

あの日より強く


 三歳のころ兄におやつを奪われたことがきっかけで、俺は下剋上にめざめた。

 兄という生き物はつねに理不尽だ。弟は己の“子分”であると信じて疑わず、年長者のパワーをフル活用して横暴を強いてくる。テレビのチャンネル権は独占し、完成間近だったジグソーパズルは勝手にバラして一人で遊び始め、朝稽古後の楽しみにと冷蔵庫で冷やしておいた水ようかんだって、何度横取りされたかわからない。

 そのくせ時折、気まぐれのように、正しい意味で「兄」らしい優しさを見せるのだ。

「そういや若が読みたがってた本、中央図書館で借りてきてやったぞ」
「えっ」

 中央図書館は大きくて蔵書数も多いが不便な場所にあり、三十分に一回のバスを二本乗り継がなければ行けない。俺はまだ小学生でこづかいも少ないから、バスはそう気軽に利用できるモノじゃない。

「来週の日曜に返しに行くから、それまでにしっかり読んどけよ」
「……うん。ありがとう」

 本を受けとった俺はふだんの理不尽も横暴も忘れて、どうしたって胸が熱くなる。

   ***   

「そういえば、きのうお姉ちゃんから聞いたんだけど」
「え?」

 意外な言葉が聞こえて、俺は反射的に話をさえぎった。ピアノのイスの上で楽譜を広げていた鳳は、もともと丸い目をさらに丸くして、きょとんとした顔で「どうしたの?」と俺を見た。

「おまえ、一人っ子じゃなかったんだな」
「え? うん、違うけど」

 最近知り合ったばかりの鳳は、俺とはクラスも違えば人間としてのタイプも違う。コイツは「下剋上」という言葉すら知らなかったし、他人を蹴落としてのし上がるどころか、見ず知らずの誰かの荷物さえその身に引き受けて道まで譲ってしまうほどの、バカみたいなお人よしだ。

 自分より上位の人間は全員倒すべき相手だと考えているような俺に、どうしてこんなヤツがまとわりついてきているのか。不可解ではあるものの、追及するほどの興味もなかった。興味がないから、きょうだい構成だって今の今まで知らなかった。

「ボク、一人っ子っぽく見える?」
「……」

 興味はなかった——はずなのに、自分はなぜか、コイツが一人っ子であると勝手に思い込んでいたらしい。

「……それじゃ、おまえも家では苦労してるんだな」
「苦労? って、なんのこと?」
「姉がいるんだろ? 弟なんて、何年か遅く生まれたってだけで日々横暴にさらされるもんじゃねーか」
「オウボウ……って、どういう字?」
「……おまえ、国語ダメなのか?」
「そっ、そんなことないよ!」

 と、鳳はめずらしく怒ったように眉を寄せた。

「俺には女きょうだいはいねーけど、兄でも姉でも似たようなもんだって聞くぞ。見たいテレビの時間がカブったら、問答無用で弟のほうがガマンさせられたりするだろ?」
「えー……うちではいつもボクに譲ってもらえるよ? それだと不公平になっちゃうから、十五分ずつ交代で見たりするけど」
「……でっ、でも。クリスマスケーキを二等分しようとして片方が大きくなったら、大きいほうは絶対先に取られたり……」
「うーん、それも毎年ボクがもらってるなぁ。お礼に砂糖のサンタさんはあげるよって言うんだけど、お姉ちゃんはそれもボクが食べていいって」
「……」
「日吉くんはいつも、家でお兄ちゃんからそういうふうにされてるの?」
「ああ、まあ……」
「そっかぁ、たいへんなんだね」
「……」

 言葉を失っている俺の頭上で、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り響く。

   ***   

 衝撃だった。世の中には弟として生まれながらも理不尽を味わわず、むしろ年少者だからと庇護されるばかりで生きている者もいるのだ。

 頼りなさそうだから兄には見えないし、かといって自分のように、“下の子”らしい反骨精神や上昇志向が見受けられるわけでもない。だから俺は、アイツが一人っ子だと思い込んでいたのだろう。

 でも実際はそうじゃなかった。同じ弟でも、俺とは違う。

「……」

 放課後の稽古では、どうにも調子が出ず上級生に負かされた。稽古のあと自室にこもり、文机に向かった。今の気持ちを書きとめておこうと思ったけれど、頭の中では言葉がうずまいているはずなのにペンはまるで動かず、いつしか机に顔を伏せたまま眠ってしまった。

 そうして短い眠りのあいだに夢をみた。夢の中では俺が鳳の家に、鳳が俺の家に生まれ、お互いが現実のそれとはまるで異なる環境で今日この日までを生きてきていた。優しい姉に甘やかされて育ち、たぶん「下剋上」の字も書けないだろう夢の中の俺は、心底不思議そうな目で鳳の——現実の俺自身にそっくりの——姿を見ていた。

 ——彼はどうして、あんなに誰かに剋つことばかりを考えているんだろう。

 不愉快な夢が切れ切れになってきたころ、兄が部屋に入ってくるらしき足音が聞こえ、目がさめたら肩には毛布がかけられていた。

   ***   

 あったかもしれない世界、いたかもしれない自分? バカバカしい。

 俺は俺でしかない。ほかの誰かにはなれないし、なりたいとも思わない。もう低学年のガキじゃないから、兄が本心では俺のことをうんと大切に思ってくれていることだって、ちゃんと理解している。

「日吉くん、おはようっ!」
「……ああ、おはよう」
「今日も寒いねぇ」
「そうだな」

 氷点下の冷気は寒いというより、もはや痛い。学校へ向かう道の途中、ほっぺたの皮膚を刺すような冬の外気に、体はギュッと縮こまった。

「あれ? いつものかわいいマフラー、今日は巻いてないの?」
「……べつにかわいくねーけど。今日は家に忘れた」
「そうなんだ。……じゃ、これ使って?」

 ニコニコと屈託のない笑顔で、鳳は自分のマフラーをほどき、俺のほうに差し出してよこす。

「いや、なんでそうなるんだよ。それじゃおまえが寒いだろ」
「ん、ボクは平気だから。日吉くん、さむいの苦手だって前に言ってたし」
「……いらねー」
「でも……」

 白い手に握られた白いマフラーが、俺の頬に押しつけられる。それはいかにもコイツらしい、優しげな乳白色をしていて、俺にはきっと似合わない。

「……いらねーって言ってんだろ!」

 自分でも驚くくらいの大声が出た。寒いはずなのに体はカッと発火するように熱くなり、右手はいつのまにか、差し出されたマフラーを乱暴にはねのけていた。

「俺、おまえがいるとイライラする」
「え……」

 言ってはいけないことを言ってしまった。ハッと我に返り、謝るために口を開きかけたけれど、鳳はただポカンとして、不思議そうにこちらを見つめているだけだった。

 夢の中で見た俺のように。

   ***   

 どうせ外見のとおりに軟弱なヤツだろうと思っていた。だけど鳳はあんなことを言われたあとでも、昼休みになると俺のクラスに顔を出し、俺の手をひっぱって音楽室まで歩いた。案外、しぶとくてガンコな男なのかもしれない。

「そういえば、きのうお姉ちゃんから聞いたんだけど」

 クラシックのなんとかという曲が終わったあとの、余韻の静寂。鳳はその静寂を、二十四時間前とまったく同じ言葉で破ってみせた。

「いつもは優しい人が時々だれかにイジワルをしちゃうのって、ホントはその相手のことがすごく好きで、その相手のことがかわいいから、っていう場合も多いんだって」
「……」

 俺はとっさに目を上げて、いつものように能天気に笑っている鳳の顔を見ていた。自分とはあまりにも違う、まるで邪気のないその笑いかたは、なぜか俺の喉元をきつく締めつけた。

 ——あ、泣きそう。

 と思ったのをごまかすみたいに、俺の口からはまた大声が飛んでいった。

「俺はそんなんじゃない!」
「へっ……」

 ポン、とピアノの音が鳴る。俺の剣幕に驚いた鳳が指をすべらせて、鍵盤にぶつけたらしかった。

「えっと……、日吉くんのことじゃないけど?」
「……えっ」
「あ、ううん、日吉くんのことではあるけど……。そうじゃなくって、日吉くんのお兄ちゃんのことで」
「……」
「日吉くんのお兄ちゃんも、きっと日吉くんのことがすごく好きでかわいいから、時々イジワルしちゃうんじゃないかなって……」

 喉元の苦しさが、どんどん強くなっていく。自分が誤解をしていたことはわかったはずなのに。

「……そういう意味だったんだけど……もしかして日吉くん、すごく好きでイジワルしちゃう相手がいるの?」
「ちっ、ちげーよ!」

 好きとかかわいいとか、そんなの絶対ありえない。だってそれは、あの白いマフラーを巻いた自分自身の姿を好きとかかわいいとか思うのと同じことだ。

 これ以上コイツの話に付き合うのは危うい気がして、俺はピアノの隣に置かれた木のイスから立ち上がり、そのまま鳳に背を向けた——けれど、「あっ!」と弾むような声が背中にぶつかって、廊下へ出ていこうとした俺の足を止めた。

「けさ日吉くんがボクに言ったことって、もしかしてイジワルだった?」

 ——いや分かってなかったのかよ!

 と内心でツッコミを入れる俺の脱力をよそに、鳳は俺の腕をつかんで強引に引きよせ、俺をまたイスの上に座らせた。

「ねっ! そういうこと?」
「……だから、そんなんじゃねーって!」

 頭も頬も体中の皮膚も、どこもかしこもやっぱり熱かった。鳳はなぜか、はにかむように「へへ」と笑った。

「あのね。ボクのお父さん、ウソをつくのはよくないことだって、いつも言うんだけどさ」
「……は? それが何だよ」
「ボクもウソはよくないって思うけど……でも言われてうれしいウソもあるんだって、いま初めて知ったよ」
「……」

 鳳は左手で俺の腕をつかんだまま、右手で楽譜の本をパラパラとめくり始めた。楽譜には赤や青のペンであちこちに書き込みが入っていたけれど、音楽が不得手な俺にその意味はわからなかった。

「……謝ってやろうと思ってたけど、やっぱ前言撤回しねー。俺、おまえがいるとイライラする」
「え~、傷つくなぁ」
「っていうか、そっちこそ何がどうして俺なんかにくっついてるんだよ。おまえ、友達ならいくらでもいるじゃねーか」
「うーん……」

 春の歌、と題された楽譜のページで指をとめて、鳳はようやく俺の腕から手を離した。

「なんでかな。考えたこと、なかったけど……でも、今いっこ思い出したよ」
「何をだよ」
「この前、学年合同の芸術鑑賞会があったでしょ? そのあとボクが感想の作文を書くのに悩んでたら、『たかだか四百文字に何時間かけてんだよ、トロいヤツだな』って日吉くんに言われて……」
「……おまえ、そんなのがうれしかったのか? マゾヒストっていうんだぞ、そういうの」
「ちっ、違うよ!」

 頬をふくらませながら、鳳は鍵盤に手をかけた。『春の歌』らしき穏やかなメロディの中に、生クリームみたいな、なめらかな声が続いていく。

「そうじゃなくて……だって日吉くん、その次の日にボクが別の子から同じことを言われたときには、『そういうのは“トロい”じゃなくて“思慮深い”っていうんだよ』って怒ってくれたからさ」
「……」
「なんかボク、それがやけにうれしくって……」

 ——ふと、兄から本を受けとったときに感じた高揚を思い出す。いつもは優しくない兄の気まぐれで、かんたんに喜んでしまう自分。俺がもっと小さかったころ、兄はしょっちゅう俺のことを泣かせてきたクセに、俺がほかのだれかに泣かされると、決まってすぐに駆けつけて助けてくれた。

「……俺、そんなこと言ってない」
「え、言ったよ?」
「言ってない!」
「言ったよぉ!」
「言・っ・て・な・い!」
「言・っ・たー!」

 『春の歌』の演奏はいつしか途切れ、まだ春を迎えていない音楽室の中には、しばらく俺たちの言い争う声だけが続いた。

   ◇◇◇   

 鳳はいつのまにか、軟弱ではなくなっていた。軟弱だと思っていたのは最初から俺だけだったのかもしれなかった。

 下剋上精神はなくとも向上心は人一倍で、そしてなにより、だれよりひたむきだったから、あろうことか俺より先に正レギュラーの座を獲りさえした。でも俺は素直にうれしかった——なんて思えたわけがない。

 あんな弱そうなヤツみたいになりたいと願うことなんてありえないって、小学生のころの俺は考えていた。アイツくらい強くなりたいと悔しがる未来があるなんて、夢にも思っていなかった。

「ちょっと日吉~……何!? きょうの部誌!」
「あ?」

 部活後のストレッチに励んでいた俺の頭上に、例によって生クリームみたいな、あまったるい声がかかる。急激にデカくなりすぎた体は成長の混乱のさなかで変声期を拾い忘れてしまったのか、鳳の声は幼稚舎のころからほとんど変わっていないのだった。

「『鳳がサボっていた。他、特になし。以上』って……俺がいつサボったんだよ!」
「サボってただろうが。宍戸さんの弁論大会のリハーサルの激励に行くとか言って」
「そっ、それはサボりのうちに入らないだろ!?」
「余裕で入るわ!」

 だいたい本番ならともかくリハーサルの応援って、かなり意味がわからない。宍戸さんは一年生のときにも弁論大会に出場させられて予選落ちしたらしく、二年越しのリベンジの手助けをするんだと鳳ははりきっていたが。

「お前自身の学業に関係がある用事でもなく、喫緊の用事でもないんだから、サボりにカウントされて当然だ」
「俺にとっては喫緊の用事なんだよ!」
「知るか、お前の私情なんか」
「……っていうか、俺が抜けたのはたかだか二、三分だろ。そこまで目くじら立てるほどのことじゃないのにさ……」

 俺たち以外は無人になった部室のすみで、鳳はいたく不満げな睥睨をよこした。

「二、三分じゃねえ。五分二十秒だ」
「びょ、秒って……」
「俺は練習中に一分だって気を抜いたことはないし、一秒だって時間をムダにしたことはない」
「えぇ~……秒単位で俺の不在のタイム計ってるのとか、どう考えてもムダな時間じゃん……」
「横からで悪いけど、正確には五分二十五秒だったと思うよ?」

 と突然声のしたほうを、俺と鳳は同時に振り返っていた。

「……なんで滝さんまで数えてるんっすか、そんなの……」
「いやー、なんか日吉が急に不機嫌そうな顔で時計をにらみ始めたからさ。なるほど~と思ってつい俺も計測を」
「べ、べつに不機嫌な顔なんてしてません。『なるほど』ってなんですか」
「それを俺の口から言うのは野暮というか……ごめんね、お邪魔しちゃって。学期末に必要な書類、いまのうちに整理しておきたくてね」

 滝さんは資料棚から数冊のファイルを回収すると、軽やかな足どりで部室を出ていった。

「……そろそろ帰るか、俺らも」
「う、うん。……部誌は書き直して……」
「やらねえ」

 ふくれっつらをしている鳳を無視して、帰り支度を進める。鳳はなにやらぶつくさとぼやきながら着替えていたが、コートを羽織るころにはとりあえず機嫌を直したらしかった。

「あれ。日吉、マフラーは?」
「家に忘れた」
「えー、また? 今日はかなり寒いのに……」

 軟弱ではなくなっても、アホほどのおひとよしは変わらない。秋がふけ、寒くなって、防寒具が必要な日にそれらを忘れてくると、俺の眼前には幼稚舎のころと同じように、白い手袋やら上品な柄のマフラーやらが差し出される。

「じゃ、これ使って? 家まで巻いて帰っていいからさ」

 生意気にも俺よりずっと長身になりやがった十三歳の鳳は、淡いベージュ色のマフラーの端と端を持って俺の前に立ち、俺の首にそれをぐるぐると巻きつけてくるのだった。

「べつに貸してくれなくて結構だ。って、今年だけで何回言わせる気だ」
「まあまあ。遠慮するなって」
「いや、遠慮じゃねえし……いちいち借りを作るみたいで気持ち悪いんだよ」
「ええ? 貸しとか借りとか、そんなふうに考えたことないよ、俺」

 友達なんだから——と、こっぱずかしい文句を吐きながら、鳳は俺の顎の下にマフラーの結び目を作った。

「……あ。でも日吉がどうしても気になるっていうなら、今日のぶんは交換にしようか?」
「交換?」
「俺がマフラー貸すかわりに、日吉は部誌を——
「書き直さねーよ! それとこれとは話が別だ」
「えぇ~……」

 荷物をまとめて部室から引き上げ、廊下を抜けて外に出る。黄昏時の冷たい風が、容赦なく肌を打ってくる。

「日吉、なんか俺にだけ厳しくないか? たしかに部活を抜けるのは褒められたことじゃないけどさ。……あっ、もしかして」
「……なんだよ」
「ホントは日吉も宍戸さんの応援、行きたかったんだろ! それならそうと言っ——痛ぁっ!」

 ラケットバッグではなく手回り品用の小さな手提げで殴ってやっただけ、俺は優しいだろう。鳳は両手で額を押さえながら、「日吉ひどいよ~」となさけない声を上げた。

「俺はひどくない。お前がバカなのが悪い」
「なっ、なにそれ!?」

 借りたマフラーのやわらかさは同じでも、俺たちのあいだにはもう、あの日とは同じじゃないもののほうが多いのだ、多分。いつも頼りなくて危なっかしかった、まるきり幼いこどもでしかなかった友人はこの一年半で、男としての、人間としての芯を築き、憎らしいくらいに強くなった。友人として感謝の念さえ抱くほどの、それは劇的な変化だった。その変化の大部分をもたらしたのが俺ではない他の誰かであることが悔しい——とか、俺は絶対に思っていない。

「……」

 我知らず眉間に力が入り、チッと舌打ちが落ちる。こんな変化は欲しくなかった。

「……俺、やっぱりお前がいるとイライラする」
「え。何? 『やっぱり』って」

 ——覚えてねーのかよ。

 と追及したくなった衝動をグッと抑えて、立ち止まる。夕暮れのなかで、踏切を待ちながら目を閉じる。

 コイツがそばにいると、自分の内側をめちゃくちゃにひっかきまわされる気がした。怖かった。昔はわけもわからずにただイライラするだけだったけれど、今はもうわかる。

 コイツは俺が手放してきたものを持っている。俺が俺になるために捨てなければならなかったもの、競争続きの日々の中で自分を守るためにあきらめたものを全部持っていて、それをいちいち俺の眼前に差し出してくる。認めたくない感情ばかり突きつけられて、だから心を乱される。

「日吉。踏切、もう開いたぞ」
「……ああ」
「……あのさ。日吉、もしかして悩みでもあるのか?」
「は? なんだよ、藪から棒に」

 今まさにお前の存在が悩みのタネだ、とか言えるわけもなく、俺はただ前を見て、もう八年近くも歩き続けている帰り道をたどっていく。

「だって日吉、最近しょっちゅうマフラーとか手袋とか、忘れてきてるだろ。ただでさえ日吉が忘れ物なんて珍しいのに、あんまり頻繁だから心配で」
「……べつに、ただうっかりしてただけだ」
「うーん、その『うっかり』が日吉っぽくないんだけど……。もしなにかあるなら、いつでも頼ってくれよ?」
「ああ」

 ——その忘れ物がわざとだって、いつかは気づかれてしまうんだろうか。

 持ち物を借りて何になるわけでもないのに、なんとなく縋るようなマネがクセになっている。こんな軟弱な自分の心の機序に、なによりイライラさせられるのだ。

「俺、明日からマフラー二本持ってこようかな。ちょうど先週、親戚の人に新しいのをもらったんだ」
「ふうん」
「紺色のチェック柄が入ってて、ちょっと大人っぽい感じで……。あっちのほうが日吉には似合うかな」

 街はもう夜の色をしていた。薄闇のなかで鏡のようになったショーウィンドウのガラスに、優しげな色のマフラーを巻かれた自分の姿が映り込む。

 一度は捨てたはずの色。どうにも不似合いな温もりをまとわされた自分のことが、でも今は少しだけ嫌いじゃなかった。

[23.02.08]


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