[説明・注意書き]
・付き合い始めたものの何も進展しないまま100日が経過して……という話です。
・冒頭(プロローグ)のみ幼稚舎時代で、小学生の日鳳がモブ男子中学生同士のキスシーンを目撃したりする話です。
※R18ですが本番はありません。
※以下の要素を含みます。
・若干の受け優位描写(耳責め)、からの形勢逆転
・攻めから受けへの手コキ
・受けから攻めへのフェラチオ、からの(不可抗力による)イラマチオ、からの精飲
100日目は1000日目
1.
この先キケン、立入厳禁——と、その看板には書かれていた。
「ま、バレやしないだろ」
「ええっ!?」
大きな公園の奥にある雑木林の、そのまたさらに奥。木々の影に覆われた、暗くて細い一本道の果て。ハデなオレンジ色に黒のしましまが入った通行止めの看板は、鬱蒼とした森の景色にちっともなじんでいなかった。
「だっ、ダメだよ日吉くん! バレないからってルールを破るのは……」
看板の向こうへ歩き出そうとする背中を、あわてて引きとめる。日吉くんは少しの沈黙のあとにボクを振り返り、うっとうしそうに眉を寄せた。
「だったら鳳はひとりで帰れよ。だいたい、ついてきてほしいなんて俺はひとことも頼んでないぞ」
「それはそうだけど……でも、ボクが帰ったら日吉くん、ひとりでこの先に行くつもりなの?」
「あたりまえだろ。なんのためにここまで来たと思ってるんだ」
「ダメだよー! この先キケン、って書いてあるんだよ!?」
「フン。俺はおまえみたいに臆病じゃないんだよ」
「そ、そんな……」
ブレザーの端をつかまえていたボクの手を払いのけて、日吉くんは看板の向こうへと進んでしまった。彼の足元には、もうコンクリートの舗装がない。
「おまえが泣こうがわめこうが、俺の意思は変わらない。だから、あとはおまえが来るか来ないか決めるだけだ」
***
この森の中には心霊スポットとして有名な古井戸があるんだって、日吉くんは話していた。でも実際に行ってみるとその井戸はすでに埋め戻されていて、そこには土の更地があるだけだった。
「ちくしょー。ここもハズレか」
「よ、よかった……」
「よくねーよ!」
「ねえ日吉くん、そろそろ帰ろう? もう暗くなってきちゃったし……」
「……ああ」
森の中は暗く、空気はひんやりとしていた。来た道を引き返し始めると、日吉くんは意気消沈したようすでボクの一歩うしろをついてきた。
「……おい、アレ見ろ」
「どうしたの?」
「そこの藪の中、トンネルの入り口みたいになってる」
「えっ?」
驚いて振り返る。日吉くんが指さしていたのは、高い針葉樹が特にたくさん密集している一角だった。木々の奥には、高さ二メートルくらいの、苔むした岩場があった。その岩場の足もとには、たしかにトンネルのような、洞窟の入り口のようなアーチ状の穴があいている。
まさかと思うより早く、日吉くんはその藪に足を踏み入れた。
「ちょっと日吉くん! もしかして中に入るつもりじゃ……」
「ああ、もちろん入るぞ。洞窟とか防空壕とか、怪談の定番だからな」
「で、でも……」
「だから、帰りたきゃひとりで帰れって」
「……」
日吉くんからこんなふうに言われるのは、なにも今日始まったことじゃない。突き放すような言い方をされたって、ボクはもちろんこんな場所で友だちをひとりにはできない。——突き放すような言い方をされたらなおさら、だ。それは日吉くんもわかっているだろうから、本当はついてきてほしくてあんなふうに言っているのかもしれない。
***
結局、ボクは日吉くんを追って洞窟(?)に入った。岩の洞窟の中は暗く、土と苔と水のにおいがして、空気は外よりも冷たかった。いちばん奥まで探検するんだと日吉くんははりきっていたけれど、いざ中を歩いてみると一分もしないうちに行き止まりに着いてしまった。
「穴場かと思ったのに、結局またハズレだな」
「うん……オバケとか、出てこなくてよかったぁ」
「だから、よくねーんだよ」
「ね、今度こそ帰ろう? もう五時になっちゃうよ」
ボクのより冷たい日吉くんの手をひっぱって、来た道を戻る。だけど洞窟の出口の向こうの光景が目に入ったとき、ボクの足は動かなくなってしまった。
「……」
「おい、どうしたんだよ」
「……あ、あれ」
ボクの声が怖がっているように聞こえたんだろうか——日吉くんは「もしかして怪奇現象か!?」と声を弾ませながら、出口の先へ視線をやった。
「……って、なんだ、生きてる人間かよ。あれ、ウチの中等部の基準服だし」
もう夜の藍色になってきた森の中、ボクたちのいる洞窟の入り口から三メートルも離れていないところ。それは氷帝中等部の冬服を着た、男の先輩ふたりだった。一人は太い木の幹に背をあずけ、彼と向かい合う形でもう一人が立っている。木に寄りかかっている人は背丈がかなり高く、ふたりのあいだには頭ひとつぶんくらいの身長差があるから、上級生と下級生の二人組なのかもしれない。
ふたりはお互いの腰に手を添え、至近距離で見つめあっていた。
「俺が言うことでもないけど、こんな森の中で何やってるんだ? あのふたり」
と、日吉くんが首をかしげたとき、二つの人影が動いて重なった。
「……」
ひゅっ、と息をのむ音がした。自分のものか日吉くんのものか、わからなかった。
「……あれ、どっちも男子の冬服だよな?」
「う、うん……」
「……なるほど。あの看板、こういう役にも立つわけか」
「えっ、どういうこと?」
「立入厳禁、って書いてあれば自動的に人払いされるだろ。密会にはもってこいの結界だ」
「みっかい」
話の内容よりも、日吉くんの冷静さにボクは驚いた。でも横目でうかがってみたら、ふだんの冷静さとは違う、気まずそうな面持ちも見えた。
「……しっかし迷惑だな。俺ら、あいつらの真ん前を通らないと帰れねーじゃん」
「そうだよね……。どうしよっか? 出ていってみる?」
「……」
問題のふたりはさっきよりも密着してお互いを抱きしめあいながら、唇と唇をくっつけては離し、くっつけては離しを繰り返していた。ボクひとりだったら、とてもじゃないけどあの場に出ていく度胸はない。
「……まあ、ちょっとくらいなら待ってやるか。逆恨みされて目をつけられたりしても厄介だし」
「そんなことはされないと思うけど……でも、そうだね。ちょっと待ってみようか」
「でもここ、じかに座ったらズボンが汚れそうだな」
「あ。それならボク、ハンカチ二枚持ってるよ」
「え」
出口の脇に二枚のハンカチを敷いて、その片方に腰を落とす。目線でうながすと、日吉くんもその場にしゃがみこんだ。
「いや……これじゃズボンは汚れなくても、ハンカチが汚れるぞ」
「うん。でも大丈夫だよ? 洗えば落ちるし、ハンカチは汚れを拭くためのものだし」
「……悪い。じゃあ借りるな」
ランドセルを下ろし、二人で並んで体育座りになると、ボクたちの会話は途切れてしまった。洞窟の外からは、例の中学生たちの話し声が聞こえてきていた。先輩・後輩の組み合わせかと思ったけれど、どちらの声も「です」「ます」の丁寧語は使っていないから、どうやら同学年らしい。
「……日吉くん」
「ん?」
「えっと……、あっ、きょうの朝ごはん、なに食べた!?」
「…………。白米と漬物と味噌汁と煮物だけどさ。おまえ、話題ヘタクソすぎるだろ」
「うっ……」
外の声はもう声ではなく、荒い吐息とキスの水音だけになっていた。聞いていられなくて雑談を振ろうとしたけれど、動揺をごまかすことはできなかった。
「……照れてるのか? おまえ」
「そういうわけじゃないけど……」
強がりじゃなく本当に、照れ、って感じではない。どちらかといえば——恐怖、みたいな。
「あの、日吉くん」
「今度はなんだよ」
「手、つないでもいい?」
「……はぁ?」
日吉くんは完全にあきれ声だった。だけどその数秒後、ボクの目の前には白くてきれいな手が差し出された。右手でぎゅっと握ると、やっぱりボクより冷たかった。
「……こ、これでハンカチのぶんの借りは返したからな。そうじゃなきゃこんなこと……」
「うん、ありがとう。日吉くん、優しいね」
「べつに優しいとかじゃねーし。借りを作るのがイヤなだけだし……」
と、そっけなく言いながらも、日吉くんはボクと同じくらいの強さで手を握り返してくれた。
「照れてるんじゃないなら、ビビってるのか」
今度はわりと図星だった。
「なんかボク、ああいうの苦手かも」
「……『ああいうの』って、どういうのだよ」
「……」
答えを考えるのが怖くて、返事はできなかった。洞窟の外から、泣き声に似た声がボクの耳を刺してきていた。泣き声に似ているのに幸せそうな、甘やかな、途切れ途切れの切なげな声だった。
「……ボクたちも大人になったら、ああいうこと、するのかな?」
「いや……知るかよ、そんなの。っていうか、あのふたりは大人じゃないだろ。中学生なんだから」
「あ……そっか」
でも小学生のボクにとっては、あのキャメル色のブレザーを着てネクタイを締めているだけで、ずいぶん大人に見える。
五分待っても十分待っても、中学生たちは去っていかなかった。直接見て確かめる勇気はないけれど、たぶん今はもう、キスではない他のことをしている。そういう音が聞こえるのだ。
「……手、いてーんだけど」
「えっ……あ、ごめん!」
ボクは知らずしらず、日吉くんの手を強すぎる力で握りしめてしまっていたらしい。ボクの体温と汗が伝わったのか、冷たかったはずのその手も今はぬるかった。
「ごめんね。日吉くんの手、つかまってると安心するから……つい力が入っちゃって」
「……なんだそれ。ガキかよ、おまえ」
「うーん……中学生のあの人たちが大人じゃないんだから、ボクたちはなおさら子供なんじゃない?」
「そういう意味じゃない」
痛いと言ったのに、日吉くんはボクの手を振りほどくことはしなかった。それどころか、なにかに寄りかかりたくなって体を傾けたボクに肩を貸しさえしてくれた。日吉くんの肩に頭をもたせると、彼のまっすぐの髪がボクの額にかかった。
「……おい、本当に気分悪そうだな。心が弱すぎるんじゃないのか、おまえ。男のくせに」
「うん、そうだよね……。ありがとう、心配してくれて」
「なっ、なんで今のが心配に聞こえるんだよ!」
「……なんとなく……」
と答えたら、今度はボクの手に軽い痛みが走った。
「……くそ、ここが本当に心霊スポットならよかったんだ。おまえ、どうせオバケとかも苦手だろ?」
「えっと……まだ会ったことはないからわかんないけど、会ったらきっと怖いだろうなって思うよ」
「じゃ、次はぜったいアタリの場所に連れていってやる。で、ビビった顔を思う存分拝んでやる」
「えー……日吉くんが怪談とか七不思議とか好きなのって、そういう理由だったの?」
「それが理由ってワケじゃねーけど、それもひとつの——」
そのとき、ひときわ大きくて高い声がボクたちの耳に飛び込んできた。
苦しがるような、痛がるような——だけど幸せそうな。動物の鳴き声を思わせるその声に、ボクは思わず後ろを振り返ってしまった。洞窟の出口の向こうでは、背丈の高いほうの人が木の幹にもたれて座り、もう一人が覆いかぶさるようにして、彼の首や耳に舌を這わせているところだった。
「……」
背筋がゾワッとした。鳥肌がたつように全身が寒くなり、それなのに頭の中はカッと熱くなる、今までに感じたことのない感覚が体を襲った。あわてて前を向き直ると、日吉くんと目があった。つまり、日吉くんも外を見ていたってことだ。
「あ、えっと……」
不明瞭な言葉をひとつふたつ呟くと、日吉くんはプイとそっぽを向いてしまった。外の声はどんどんエスカレートしていくようで、ボクは聞けば聞くほど不安になった。なにかにすがりつきたい衝動に駆られて、日吉くんの手を握ったまま、反対の手で彼のブレザーの襟にしがみついた。肩口に顔をうずめると、やわらかい髪の毛先がまた額にふれた。
「っ……そ、そこまでしていいとは言ってないぞ!」
「うん。ごめん……」
「ごめんって、おまえ……」
つないだ手に、ギュッと強い力がかかる。
「……鳳」
「えっ」
いつも「おまえ」ばかりで、名前で呼ばれることなんてめったにないから、ボクは反射的に顔を上げた。日吉くんは怒ったような、困ったような顔でボクを見ていた。
「おまえ、こんなので安心するのか」
「う、うん」
「なんでだよ」
「なんでって……」
「俺といて安心するなんて、だれも言わねーよ」
おまえ以外は——と続けて、日吉くんは手の力をさらに強くした。そうされると、安心の源泉だったはずのその温度の中に、なにか別のものも混じってくるようだった。
「わかんないよ、理由なんて」
「なんでわからないんだよ」
「そ、それもわかんないよ……」
煮えきらないボクの言葉にいらだつように、日吉くんはとうとうボクの手を振りほどいた。
「わかれよ。お前は俺を——」
「『俺を』?」
「……」
返事はなかった。かわりに、さっき離れていった日吉くんの手が、今度はボクのほっぺたに添えられた。
「え」
暗い洞窟の中で、いつのまにか日吉くんは間近からボクの目を覗き込んでいた。見たことのない顔をして。
「あの、日吉くん、」
頬にくっついた手が、顔を撫でるように動き、やがて指先でボクの耳たぶにふれた。ふれられたところから皮膚に寒気が流れて、ボクの体はブルリと震えていた。
「……日吉くん、だめ」
「何が?」
「それ、耳、くすぐったいから……っ、あっ」
自分のものではないような声が出た。さっき聞いた中学生の声と、それはよく似た響きだった。
「わからないなら、教えてやる」
「へ……」
おでことおでこがくっつく距離まで、日吉くんは顔を近づけてきた。ボクの背後には洞窟の壁があり、逃げようと思っても逃げ場はなかった。
さっき見た中学生たちの姿が、脳裏によみがえる。
日吉くんが何をしようとしているのか、なんとなく想像できてしまった。瞬間、どうしてかお臍の下のあたりがギュッと熱くなって——気がつくと、ボクの両腕は日吉くんの体を突き飛ばしていた。
「だめっ……!」
それは自分でも驚くくらいの強い力で、日吉くんは背後の地面に勢いよく尻餅をついた。友だちを突き飛ばしてしまったという事実に、ボクはハッと我に返った。
「ごっ、ごめん! 日吉くん、大丈夫!?」
「……大丈夫じゃねーよ。いってぇな……」
「本当にごめん!」
ボクは立ち上がり、うずくまっている日吉くんを助け起こそうと手を伸ばした。けれど、
「触んな!」
と叫んで、日吉くんはボクの手をはねのけた。
「……ビビった顔を見てやろうと思っただけだよ。冗談だよ! 冗談を真に受けてるんじゃねーよ!」
「ご、ごめん……」
ボクたちの声に気づいたのか、中学生たちはいつのまにか姿を消していた。日吉くんはランドセルを背負い、「帰る」と言って足早に洞窟の外へ歩き始め、ボクはあわててその背を追った。
「ごめんね、日吉くん。これからボクの家で手当てを……」
「いい。自分の家でやる」
「そ、そっか……。本当にごめんね。ボク、ちょっとびっくりしちゃって」
「……いいよ、もう。べつに怒ってねーし」
それから立入厳禁の看板を越え、いつもの帰り道をたどって、ボクたちはそれぞれの家に帰った。
借りは返したと言ったのに、日吉くんはハンカチを持って帰り、洗って乾かしてアイロンまでかけて次の日に返してくれた。
◇◇◇
2.
100日が経過しても、日吉は101日前と変わらない。今日が100日目だということを覚えているのも、俺のほうだけだろう。
「え、問3は絶対Bだろ? 俺、不安になって四回も検算したんだぞ」
「いや……0から4までの数字から選んで二桁の数を作る場合、十の位に0は置けないだろ。だから可能性の中から四通りは除外されて、残りは十六通り」
「……あっ」
「ま、よくある引っかけ問題だな。お前みたいに単純なヤツを落とすための」
「う……」
真昼の日差しで白く照る数学の問題用紙の端が、手の中でクシャリと潰れる。今回の定期考査は好調だと思ったけれど、この分だと他にもケアレスミスをやらかしているかもしれない。
「俺、全然気づかなかったよ。日吉は冷静だな」
「冷静というか、単に得手不得手の問題というか……。ペーパーテストがない教科のほうが得意だろ、お前は」
そう言って、日吉は十字路を左に進んだ。
「あ……」
「なんだよ」
「……あのさ。やっぱり今日は図書館じゃなくて、俺の家で勉強しないか?」
いつものラケットバッグではない、コンパクトな学生鞄を右肩にかけたかっこうで、日吉はこちらを振り返った。
「べつに構わないが……でも俺、手土産とか持ってないぞ」
「いやいやいや、いらないよ、そんなの! 学校帰りにちょっと友達の家に寄るってだけで——」
——あ、「友達」って言っちゃった。
と気づいて焦ったけれど、日吉が表情を変えたりすることはなかった。
「……っていうか、どっちみち夕方までは誰もいないし……」
「……ふうん」
「よし、決まりな? 行こ!」
小学生のころの自分だったら、ここで友人の手を引いて走り出したかもしれない。あのころより親しくなって、もう「友人」だけでもないはずなのに、今はそんなこともできない。
***
この100日のあいだに、俺は何度も水を向けてみた。今日みたいに家に誘ったり、下校中に寄り道がしたいと言って、さりげなくひとけのない場所を通ったり。だけど手をつなぐことはおろか、歩いている最中に事故的に指先と指先がぶつかってしまう、なんていうささやかなイベントすら、起こってくれることはなかった。100日前のあの告白は俺だけが見た幻だったのかもしれない、なんて思うほど。
自分の性格上、強行突破はできそうにない。それとなくシチュエーションを整える程度のことがせいいっぱいだ。というか——たとえ自分がもっと強気な性格をしていたとしても、こんなに露骨な俺の画策をことごとくスルーしてくる日吉が相手じゃ、どうすることもできそうになかった。
“したい”と思っているのは俺だけなのかもしれない。求めてみて拒まれたら……って考えると、どうしたって踏み込めない。
「……日吉、おまたせ。もらいものの水羊羹が冷蔵庫に余ってたから、ついでにそれも切ってきたよ」
お盆を持ってキッチンから部屋に戻ると、日吉はローテーブルに広げた勉強道具から手を離し、背後のベッドに寄りかかってボンヤリとどこかを見上げているところだった。俺の顔を見て、ちょっと気まずそうな表情になる。
「悪い。そんなに気を使ってくれなくていいんだが」
「日吉こそ、そんなに律儀に恐縮してくれなくていいんだぞ」
テーブルの上に散らばった筆記具類を片付けて、試験勉強は少しの休憩タイムに入った。日吉は俺の向かいで羊羹を食べ終えると、「ごちそうさま」と丁寧に手を合わせたあと、その手を目元に持っていった。
「目、疲れちゃった?」
「ああ……トイレか洗面所、借りていいか。コンタクト、外してきたい」
「そんなのいくらでも借りてくれていいけど、眼鏡は持ってるのか?」
「鞄に入れてある。……二階のトイレ、借りるな」
日吉は鞄を持って部屋を出、五分くらいで戻ってきた。
テニス用品とそのための収納が増えたくらいで、俺の部屋は小学生時代とほとんど変わらない。幼稚舎入学のときに買ってもらった勉強机、楽譜用の棚、ウォークインクローゼット、やや背の高いベッド、など。幼稚舎のころはよく日吉が遊びに来てくれていたけれど、中等部に上がってからはその機会も減っていた。昔よりぐんと大人っぽくなった彼がこの部屋にいるのは、だから結構新鮮だ。
「日吉が眼鏡かけてるの、この部屋では初めて見たな」
「見て愉快なモンでもないだろ、別に」
「えー……」
細い銀のフレームで、レンズに少し丸みのあるそれは、日吉のシャープな雰囲気によく似合う。勉強道具を前にしている今はなおさら、だ。
「……そんなことないよ? めちゃくちゃかっこいいしサマになってるし、オフの日吉を見られたって感じで気分いいし」
「気分いい」って言いかたは、ちょっと正直すぎたかもしれない。日吉は俺から目をそらし、不自然な咳払いをひとつ落としたあと、「そうかよ」と小声で呟いた。
——あれ?
「日吉、もしかして照れてる?」
「照れてない」
「うわ、即答すぎる……やっぱ照れてるんだ」
「照、れ、て、な、い」
イヤミっぽい口調すら図星を物語っているようで、俺はうれしくなった。100日前に付き合い始めて、俺たちのあいだに「友達」以外のものが加わったことを意識しているのは自分だけなんじゃないかと不安だったけれど、本当に俺だけってわけではなかったみたいだ。
俺は立ち上がり、テーブルの向かい側に回って日吉の横に腰を落とした。
「おい、休憩はもう終わりだろ」
「日吉は勉強、続けてていいよ。俺は休憩延長して、ここで勝手に見てるから」
「……いや、なんだよそれ……」
呆れの一瞥をよこしながらも、日吉は黙って勉強を再開させた。俺はベッドにもたれかかり、ななめ後ろからその姿を眺めて過ごした。部屋の中には、シャーペンの芯がノートの上を滑る音だけだった。それはいかにも冷静で無機的な、日吉その人そのもののような音にも聞こえたけれど、彼の手が何度も文字を書き損じ、逡巡するように不安定にノートの上を惑い動くのだって、俺の目にはちゃんと見えていた。
「日吉、また『開放』が『解放』になってるぞ」
「……るせぇ。人のミスのチェックとか、悪趣味なマネしてんじゃねえよ」
誤字なんてどうでもいい。けど、日吉にミスをさせている原因が俺自身だと思うと、どうしようもなく満たされる感じがした。
「日吉。耳、赤くなってる」
「……なってない」
「ええ? 自分で自分の耳は見られないだろ」
きれいに整えられた髪が揺れてさらさらと流れるたび、赤く充血した耳が覗く。じっと見つめ続けて、そうしていたら日吉の喉が唾をのむように上下するのがわかって——反射的に、俺は彼の髪の中へと指を入れていた。
指先で耳をつかむ。と、日吉は肩を震わせ、ノートの紙面にはデタラメに蛇行した線が残った。
「耳、弱い? もしかして」
「……なんなんだよお前、さっきから……」
声はかすれて弱々しく、赤く染まっているのはもう耳だけじゃなかった。
——この100日間、もしかしたら日吉も俺と同じように躊躇していたんだろうか?
今なら一歩踏み込める、と思った。髪の中に入れた手で彼の顎を持ち上げ、身を乗り出して距離を詰めると、日吉は眼鏡のレンズの下で目を張って俺を見た。瞳孔の動きも見てとれるくらいに近づき、あとひといきでふれられると思ったら泣きそうにさえなったけれど、次の瞬間、日吉の両腕は強い力で俺の体を押しのけた。
「……やめろ」
じゅうたんの床に尻餅をついた自分の上に、拒絶の声が降ってくる。瞬時に絶望し、さっきとは別の意味で泣きたくなった俺は、みぞおちからこみあげてくるその涙を必死でのみこんだ。
「……なんでだよ」
「……」
「べつに俺、その……触ったり触られたりできなくたって、友達でいられるだけで幸せだったよ。けど」
まだ中学生だし男同士だし、多くを望んでいるつもりはなかった、本当に。でも100日前のあの日を境に、心にはぜいたくで甘い夢がすみついて離れなくなってしまったのだ。
「……けど日吉が期待させたんじゃないか。俺がバカみたいに期待して空回ってるのを見ても黙って全部無視するくらいなら、友達のままでいればよかっただろ!」
泣くよりみっともない声が出た。誰かに対してこんなふうに怒るのは久しぶりで、もしかしたら初めてかもしれないくらいだった。
そんな俺の一世一代の叫びを、でも日吉は「フン」と鼻を鳴らすだけで流した。
「ようやく怒ったな、お前」
「なっ……」
絶句。……している俺の前で、日吉はシャーペンを置き、ゆっくりと腕を組んだ。
「いつまで粘るのかと思ってたが……案外しぶとかったじゃないか」
「……な、なんだよ、それ。お前、全部わかってて……」
わけがわからなかった。俺への悪意だと解釈するほうがよっぽど納得できるけれど、日吉はそんなヤツじゃない。言葉はつれなくても本当は優しいし、好きでもない相手と付き合ったりもしない。そういう人だってことを痛いほど知っているから、余計にわけがわからない。
「……日吉はそんなの数えてないだろうけど、今日でちょうど100日経ったんだよ」
こんなこと、日吉の前で言うつもりはなかった。今日までずっと、毎日のようにカレンダーの前でドキドキしたりヘコんだり、そんな感傷的でなさけないところ、本当は知られたくなかったのに。
「この100日のあいだ、俺がどんな気持ちで……」
羞恥と自嘲のないまぜで死にそうになっても、言葉は勝手にあふれていく。みじめな気持ちでうつむいたまま、いくらでも恨み言が出てきそうだった——けれど、
「うるさい」
という日吉の強い声で、俺の舌は止まった。
「こっちは1000日待ったんだ」
「…………えっ」
驚いて顔を上げる。目に入ってきた光景に、俺は胸を潰されそうになった。
日吉は泣き出す寸前のこどもみたいな顔をして、俺をにらみつけていた。
「……せ、せんにちって……」
「小学生のお前に突き飛ばされて、あれから今日でちょうど1000日だ」
「…………」
混乱した脳が記憶を引っぱり出してくるまで、数秒。あの洞窟の中での出来事を思い出すと、混乱はますます強くなった。
「……え、いや、だって……え? あのとき日吉、あれは冗談だって……」
「ただの強がりだよ、そんなもん! 強がりを真に受けてるんじゃねーよ!」
「ええ!? な、なんか日吉、あのときと真逆のこと言ってないか……?」
冗談を真に受けるなって、あのときは怒られた。だから俺は言われたとおり、あれは冗談だったんだと素直に納得していたのに。
はぁっ、と大きく息をついて、日吉はあきれるような、すがるような声を出した。
「お前さ……普段バカみたいに他人の気持ちばっかり気にしてるクセに、なんでこんなことにだけはニブいんだよ?」
「……ごめん……。俺、ぜんぜん知らなかったよ。日吉がそんなに前から俺のこと、好きでいてくれてたなんて……」
「違う。そうじゃねえ」
「えっ」
日吉の眉間に刻まれたシワが、さらに深くなる。それは怒りの表情だったけれど、さっき見た弱々しさは消えていたから、俺は少しだけホッとした。
勝手に安堵している俺の眼前に、強すぎる目をした日吉の顔が迫ってくる。うわカッコいい、と場違いにも見とれていたら、やがて耳は予想外の言葉を拾った。
「“俺がお前を”好きだったんじゃなくて、“お前が俺を”好きだったんだ」
「……へっ……」
「それをお前がいつまでも自覚しないせいで……」
「いっ、いやいやいや! ちょっと待てよ、なんで俺の気持ちを日吉が決めるんだよ!」
「なんでって、見てりゃわかるだろ」
当然だと言わんばかりの口ぶりで、日吉は続けた。
「あの日のお前が洞窟の中で異様にビビってたのだって、俺のことが好きで、意識しすぎて混乱してたからじゃねーか」
「え……」
「だいたいお前、心霊スポットも墓地も廃道も全部苦手だったくせに、どこに行くにもいちいちくっついてきて案の定毎回毎回怖がって泣きわめいて、そのくせ“日吉くんと一緒にいると安心する”って……俺のことが好きなんじゃなきゃ矛盾してるって、自分で思わなかったのかよ」
「……そ、それは……っていうか、さすがに毎回泣きわめいてはいなかったと思うけど……」
という俺の小さな抗議は、あっさりと黙殺された。
「いくら小学生の子供でも、普通はあんなにベタベタしてこないだろ、男同士でよ。手を握るとか、無遠慮にしがみついてくるとか……それなのにこっちがちょっとばかり距離を縮めたら全力で拒絶してみせるって、なんなんだよ。タチが悪い」
「ごっ、ごめん……」
「わかっただろ。お前のほうが先に、俺のことを好きだったんだ」
「う……うーん」
そうなのか? そうだったんだろうか。日吉にここまで強く断言されると、本当にそうだったような気もしてくる。“日吉くん”のことはもちろん友だちとして大好きだったし、ほかの友だちには感じない魅力を感じていたことも確かだし、それは今も変わらない。
「……どうだったのかな。よくわかんないや」
「お前、この期に及んで……」
「でも、もうどっちだっていいじゃないか。どっちにしたって、今の俺は日吉のことが好きなんだから」
それがすべてだと俺は思った。でも日吉はまだ釈然としていない様子で、口をへの字に曲げていた。
「じゃあさ、日吉が今日まで……100日間ずっと何もしてこなかったのは、俺にも自分と同じ思いを味わわせたかったから? 一方的に待たされる立場のつらさ、みたいな……」
「そんなんじゃない」
と、日吉は意外なほど語気を強くした。
「いや、まあ……意趣返しみたいなガキっぽい意地も、まったくなかったってワケではないが」
「だったら、なんで……」
「……」
日吉はどこか痛そうな顔をして、ためらうように目を伏せ、口をつぐんだ。一度は消えたはずの弱々しさで陰っていくその表情を見ていると、俺まで息が詰まった。
「——鳳」
「はっ、はいっ!」
静けさのなかでだしぬけに名前を呼ばれて、俺の声は派手にひっくり返った。
「なんだよ、その返事」
あきれ声で言いながら、日吉は俺のほうに右手を差し出した。えっ?——と思いながらも、自分の手はとっさにその手を握り返していた。
100日間、どんなに勇気を出してもふれられなかった。いざふれてみるとあっけなく、そして頭の中で何度も何度も想像してみた感触より、ずっといとおしかった。
俺の手を握りしめながら、日吉は長い息を吐き出した。
「消えないんだよ。記憶が」
「記憶って……」
「お前に突き飛ばされたときの感覚がまだ体に残ってて……今はもうあのときとは違うはずだって頭ではわかってても、いざ踏み込もうとすると反射的に足がすくむっつーか……」
「……」
「お前がチラチラ俺のほうを窺ってるのだって、当然気づいてはいたが。……けど、具体的にどこまでのモノを求められてるのかはわからないから、そこを見誤って踏み込みすぎたら結局また拒絶されるんじゃないかって」
「……だから怖くて自分からは何もできなくて、俺のほうがしびれを切らすまで待ってたってことか?」
答えはなかった。この場合、それが答えだった。
「ごめん……」
日吉の手はやっぱり俺よりも冷たかった。彼らしくない臆病さがその冷たさに重なるようで、俺は1000日前の自分を呪いたくなった。
「本当にごめんな。俺が鈍感だったせいで、そんなに長いあいだ日吉のことを不安にさせて」
「……別に、そこまでマジに謝らなくていい。あのときだって、無理強いしようとした俺にも非はあったわけだし」
「でも……」
記憶はところどころあいまいだけど、はっきりと覚えていることもある。あのときの自分は、日吉に向かって“だめ”と言ったのだ。だめだとは思っても、“嫌”だとは思わなかった。つまるところそれが本心だったんだって、いまさら気づいても遅すぎるけれど。
100日間の心細さを経験しただけに、その十倍の痛みがどれほどのものなのか、想像するだけでも苦しかった。これ以上、日吉を不安にさせたくなかった。
「……踏み込みすぎたら拒絶されるかもって、まだ思ってる?」
「そりゃ、まあ……結局そのラインは知らないからな、お互いに」
そうだ。結局、お互いに知りたいことはひとつなんだ、きっと。確かめるのが怖くて、その一点のまわりでじれったく足踏みをしながら今日まで来てしまった。
握り合ったままの手を、胸の高さまで持ち上げる。もう片方の手も添えると、それは少し誓いのようだった。
「その……。どこまで求められてるかわからないって日吉は言ったけど、俺はどこまでだって欲しいし、どこまでだってあげるよ」
口に出してみると、やっぱりちょっと恥ずかしかった。だけど言った俺よりも、言われた日吉のほうが照れた様子で顔を赤くした。
「お前……そんなこと、軽々しく口に出すんじゃねーよ。そのうち悪い大人にいいように利用されて騙されるぞ」
「だ、騙されないし! っていうか、軽くないし……。誰彼構わず言うわけないだろ、こんなこと」
全部欲しいし全部あげたいなんて、俺の言葉はむしろ重すぎるのかもしれない。だれかにこんなことを言うのはもちろん生まれてはじめてだから、加減なんてわかるはずもない。
日吉は左手でぐしゃぐしゃと髪を掻き、それから濡れた瞳で俺の目を覗き込んだ。視線がつながった。つながった視線の奥で、もっと深い何かまでつながった気がした。心とか欲求とか、そういうモノが。
「……えっと、じゃあ、あらためて1000日前の続き、してもいい?」
「よくない」
「えっ」
虚をつかれた俺の前で、日吉は俺の両脚を挟んで膝立ちになった。下から俺を覗き込んでいたはずの日吉の瞳はいつのまにか上から俺を見下ろしていて、両手は俺の顎をつかんで持ち上げていた。——痛いほどの力で。
「俺にリベンジさせろ」
低く、強い声が降ってきて、俺はそれだけで参りそうになった。
心臓の鼓動が急激に速くなる。速すぎて逆に止まっちゃうんじゃないかって思うくらいに。
「……目、閉じろよ」
「え……なんで?」
「なんでって、そういうもんだろ」
「そうなのか?」
「……いや、俺も詳しくは知らねーけど……」
こういうことの作法なんて知らないし、俺だけ日吉の顔を見られないのは不公平だ。そう思ったけれど、いざ至近距離まで近づくと照れくさくなって、俺はまぶたを下ろしてしまった。
目を閉じた暗闇の中で、ひんやりとした手のひらが顔を撫でていく。体の中で心臓が爆発しそうに早鐘を打っている。顎の皮膚がピンと張るくらい上を向かされて、日吉の手は冷たいはずなのに、ふれられたところは全部熱くなる。
日吉はまるで卒業証書をもらうみたいに、両手で俺の顎をしっかりと支えていた。
「鳳、……」
名前を呼ばれ、ドキドキしながら身構えていたら、やがて額になにか硬いものがあたった。眼鏡がぶつかったんだと気づいたところで、今度は唇にあたたかな感触があった。
やわらかくてしっとりとしていた。それは遠慮がちに、ごく短く俺の表面を撫でるだけで離れていったけれど、その一瞬だけでも体じゅうに甘い痺れが回るみたいに、意識ごとクラクラさせられてしょうがなかった。
「……くそ」
目を開けると、日吉はなぜかくやしそうに唇を噛んでいた。
「こんなことならコンタクト、外すんじゃなかった……」
スマートにいかなかったことがくやしいんだろうか。どうだっていいのに、そんなこと。
「……日吉、もういっかい」
「ん……」
今度は薄目を開けたまま、せっぱつまった顔をした日吉の唇を受けとめる。唇と唇で押し合って、離れて、それだけで、ぜんぶ溶けていく。はじめ弱腰だった日吉のキスは少しずつ遠慮がなくなり、容赦もなくなり、強引っぽく唇を食まれるたびに服の下で背筋がしびれた。日吉の背中に回した自分の両手はいつのまにか、すがりつくみたいに強く彼のシャツの生地を握りしめていた。俺も日吉も経験なんてないのに、ただ体が欲しがる心地よさを求めて動くだけで口づけのタイミングはちょうどよく噛み合った。まるで生まれる前からやりかたを知っていたみたいに。
「……はぁっ……」
ずっとふれていたかったけれど、息苦しくなってどちらからともなく顔を離した。ふたりぶんの吐息が混ざりあいながら、徐々に薄くなり空気にとけていく。
もう一回、ってせがもうとした。でも俺が口をひらくより早く、日吉は俺の首元に腕をからめて抱きついてきた。
「ひ、日吉?」
「……」
それはロマンチックな手つきとは違う、迷子の幼児が自分を迎えにきた母親にしがみつくようなしぐさだったから、俺は思わずなだめるみたいに彼の頭を撫でてしまった。そうしていたら耳元で、ズ、とはなをすする音がして、俺の内心をぎょっとさせた。
「……泣いてるのか?」
「泣いてない。俺に泣く理由なんてない」
と強がる声は、でも語尾が水っぽく濁っていた。
「ほんとにごめん、ずっと我慢させちゃって……。日吉、俺のこと超好きだったんだな」
「……なんだよ。お前には俺が、嫌いなヤツにでも見境なく手を出すような軽薄な人間に見えるのか」
「俺は日吉のそういう憎まれ口、超好きだよ」
穏やかで優しい人たちに囲まれて育ってきたから、日吉と知り合ったばかりのころはその皮肉っぽい物言いにとまどった。だけど関係が深まるにつれ、そっけない言葉のウラにある優しげな本心がどんどん見えるようになってきて、それは優しい言葉で優しいことを言われるよりもかえってあたたかかった。
「な。続き、しよう?」
「……ああ」
なめらかな髪の中に潜り込ませた両手で、日吉の頭を引き寄せる。キスはさっきよりも水気を増して、ときどきチュッと音が鳴った。回数を重ねるごとに身がほてり、でも背筋にはゾワリと寒気が走った。冷たいような熱いようなもどかしさがモヤになって体の中をめぐり、腹の底に溜まっていく感覚。
「……んっ、ぅ……」
声ともつかない声がもれていく。長い前髪の下の、さらに眼鏡のレンズの下で、日吉は満足そうに目を細めた。
「……な、なに笑ってるんだよ」
「べつに?」
一音一音を軽く伸ばすような、例によって皮肉っぽい発声だった。日吉は両手で俺の首を包み、また顔を近づけてきた。でもさっきまでのキスとは違って、今度は舌先で上唇をめくられた。
「……!」
舌はそのまま俺の前歯を叩き、反射的に開きかけた入り口をこじあけて中に入ってきた。
「うぁ……」
ぬるりとした感触が舌にあたる。未知の感覚。呼気を逃がすだけでもいっぱいいっぱいだったけれど、俺も舌をのばして必死で応えた。舌と舌をからめあったり舐めあったりしていると、あられもない水音ばかりが起こり、その合間に時々、ひどく余裕を欠いた日吉の鼻息や、嗚咽めいた声が届いた。のぼせるような熱さのなかで意識はぼやけ、体の中に溜まっていたモヤはもうモヤではなく、もっと鋭く熱い流れになって腹の奥でうずまいていた。
しばらくお互いを貪り合ってから離れると、口の端から顎へ、どちらのものともつかない唾液がつたった。呼吸はさながらランニングの直後みたいに深かった。
「……ひよし、これヤバい、めちゃくちゃ気持ちいい……」
「ああ、俺も……」
日吉らしからぬ素直な肯定の言葉に、体の中の渦はますます熱くなった。
「……あのさ。膝、大丈夫?」
「膝?」
「さっきからずっと膝立ちになってるだろ。床、硬いから……痛むんじゃないかと思って」
「……お前、こんなときでも他人の心配するんだな」
呆れ口調で言ってから、日吉はスネるように唇を曲げた。
「っつーか、この状況で俺の心配してるような余裕あるのが地味に腹立つんだが……」
日吉の指が俺の頬の肉をつかみ、ギュッと引っぱる。ヘソを曲げた小学生みたいなそのしぐさは、俺の心臓までをギュッと握り潰してしまいそうだった。
「……ごめん。俺ホントは全然心配とかしてない……」
「え?」
「ただその、……ベッドの上、行きたいなって思って……それで」
マットレスの上ならやわらかいから痛くならないよ、って誘導するつもりだったけど、やっぱり自分にそんな器用なマネはできないみたいだ。あっけなく下心を白状した俺の上で、日吉の顔は漫画みたいに真っ赤になった(たぶん俺のほうも同じだろう)。
「あ、でも日吉がイヤなんだったら……」
「いっ、イヤじゃない」
「ほんと?」
「いや、その……お前がどうしてもって言うなら、とりたてて断る理由はないというか……」
「うん。ありがとう」
「ありがとうって、お前な……」
立ち上がろうとしたら腰が抜けそうになったけれど、どうにか持ち直してベッドに移動する。日吉は赤い顔をしたまま、律儀に靴下を脱いで畳んでからベッドに上がってきた。
「なんか不思議な感じだな。日吉、何回かここで寝たこともあるよね。小学生のときに泊まりにきてくれて」
「ああ……」
「まさか何年か先の未来にこんなことになるなんて、あのときは想像もできなかったけど」
「……『こんなこと』って、今からどんなことをされると思ってるんだ、お前」
「や、それは……」
ただもっと触りたいし触ってほしいと思っただけで、具体的な目的があって誘ったわけではなかった。こういうときにどういうことをするのが普通なのかも、俺はまだ知らない。
「……っていうか、『する』んじゃなくて『される』の? 俺」
「文句あるかよ」
文句はないけど、って答えるより早く、日吉は俺の肩をつかんで後ろに押し倒した。マットレスのコイルの反動で体が揺れる。
日吉はあおむけに寝かされた俺の上に覆いかぶさると、片手で自分のネクタイをほどいて投げ捨てた。無防備になったシャツの襟から鎖骨のでこぼこが覗いて、舌の裏に唾がわいた。そんなの部活でも見慣れているし、合宿や旅行で一緒に風呂に入ったことだって何度もあるはずなのに。
「何ジロジロ見てんだ」
「日吉、かっこいいなって思っ……わっ!」
言い終わる前に、耳元に熱い吐息がかかった。びくん、と上体が跳ねる。なにかにつかまりたくなって日吉の背に腕を回し、力任せに抱き寄せると、その体は心地よい重みで俺の上に落ちてきた。
「……ったく、怪力め」
「え。怪力、かな。鍛えたかいがあった……のかな?」
「いや、今はここまでの力は必要ないだろ」
「ご、ごめん。なんかうまく加減できなくて……っ、ん……」
耳にキスを落とされるとゼロ距離で音が聞こえ、頭の中がその音だけでいっぱいに埋められてしまう。日吉は指先で俺の耳をこすったり裏返したりしながら、吸いつくようなキスを繰り返していた。その刺激のひとつひとつが体に刺さり、腰に響いた。日吉の下でジタバタともがく自分の体が、ベッドの骨組みをきしませる。
「あっ……日吉、だめ」
「何が?」
「それ、耳……くすぐったいから」
「……なんか、あのときと同じ反応だな」
「へ……」
熱を持って濡れた舌先が、ゆっくりと耳のふちを舐め上げていく。ぞくぞくする。左耳を灼かれているだけなのに火は全身に広がり、悲しいわけじゃないのにまぶたには涙がにじんできた。
「つーか人のことを言っておいて、お前も弱いんじゃないか」
「……お前“も”ってことは、やっぱり日吉も」
「俺は弱くない」
「え~……ほんとかな」
日吉の髪の中に手を入れて、耳をくすぐる。瞳に動揺の色がさす。
「やめろ……って、おい!」
日吉の上体を押し返して、ぐるんと体を回転させて、形勢逆転。俺に組み敷かれた日吉はあわてた様子で起き上がろうとしたけれど、両手をつないでベッドに押しつけたら、もう抵抗できなくなったみたいだった。
「へへ、パワーなら俺のほうが上だもんな。鍛えたかいがあったよ」
「……くそっ、ふざけんな」
さっきの日吉のマネをして彼に覆いかぶさり、耳にかかっている横髪を唇の先でかきわける。
「なんだ。まだ何もしてないのに、やっぱり真っ赤じゃん」
「や、それは、……っ!」
自分がされたことを思い返しながら、耳元にふっと息を吹き、短いキスをいくつも落とす。うまくできている自信はなかったけれど、俺がくちづけるたびに日吉はびくびくと身を震わせ、しだいに甘い声を上げ始めた。彼の耳はどんどん充血を強め、指と指をからめて握り合った手からは痛いほどの握力が伝わってきていた。
「やっ……めろ、って……っは、ぁ……」
脳を直接くすぐられているみたいに、頭の中がぞわぞわする。俺の一挙一動に対して日吉が悶えるような反応を返すたび、いとしさが寄せてきて胸がはちきれそうになる。今までに味わったことのない興奮で、俺は心臓の音がうるさく聞こえるくらいドキドキしていた。
「日吉かわいい……。だいすき」
「……お前っ、その声でそんなこと言うんじゃねぇ、しかもその距離で……」
「その声、って。俺の声ってどういう声なんだ?」
「……」
耳や首筋へのキスを続けているうち、はじめ鋭敏な反応をみせていた日吉の体は少しずつ脱力し、いつのまにかクタリと弛緩してベッドに沈み込んだ。ときおり御しきれないように腰を痙攣させるのが、たまらなくいじらしい。
「ホントに弱いんだね、ここ。顔、へにゃへにゃになってるよ?」
「……っるせぇ……」
「……あっ。『あのとき』って、アレのことかぁ。あの洞窟の中でも、たしか日吉に耳とかほっぺたとか触られて……」
“日吉くん”にふれられて動揺したときのことを思い出す。それから、あのとき目撃した中学生たちの姿や声も。自分も大人になったらあんなことをするんだろうか、と当時の俺は考えたけれど、今の自分もまだ全然大人になってはいないのに、結局あの中学生たちと同じようなことをしている。
「日吉、小学生のころからこんなこと知ってたの? マセた子供だったんだな」
「いやアレはただ偶然指があたって、そしたらお前が勝手に過剰に反応しただけで……べつにヘンな意味で触ったわけじゃねーよ、あのときは」
「……じゃあ今は?」
焦点の定まらない目で俺を見上げていた日吉の顔が、ふいに強気な色を帯びる。ドキッとして力がゆるんだ瞬間、日吉は的確に俺のスキをついてふたたび体勢を逆転させた。
「くそ、油断した……あんまり調子に乗るなよ」
強いまなざしに真上から貫かれ、射すくめられているうちにネクタイの結び目をグイとつかまれる。そのまま躊躇のない手つきでネクタイをほどかれ、シャツのボタンまで全部あっというまに外されたら、さすがに緊張で体が固まってしまった。
「ひ、日吉」
「あ?」
「その、テーブルの上にリモコンがあるから……」
「あるから何だよ」
「……電気、消してほしいんですけど……」
「へえ。そうなのか」
日吉はフッと短く笑い、俺の腰にまたがって体重をかけてきた。
たった数分でも俺に主導権をとられたことがよっぽど悔しかったのか、日吉はしばらく全身で俺の体を押さえつけたままだった。日吉が身じろいで俺の顎とか喉元とかに唇を落とすたび、肌着一枚にされた胸元を彼のシャツの生地がくすぐり、いちいち皮膚が粟立った。意識しないようにしていたけれどズボンの前立ての部分は内側から押し上げられてしまっていて、それは日吉のほうも同じだった。密着して重なった体のあいだで時々、昂った熱と熱が布越しにこすれあい、どうしようもなく切ない息がもれた。わざとなのか無意識なのか日吉の腰は不規則に前後し、自分のそこを俺のほうに押しつけてきているみたいだった。
「……日吉、あの」
「なんだ」
「えっと、……下、あたってる……」
「……わざとだよ」
——あ、わざとだったんだ。
故意だとわかればよけいに意識せざるをえなかった。日吉の唇は顎から喉元に、喉元から鎖骨に移り、やがて視線とともに胸へと這い下りていった。
「……日吉。電気、消してよ」
「どうするかな。お前の態度しだいでは考えてやらないこともないが」
「態度って……」
腕力なら俺のほうが強いから、その気になれば抵抗できる。でも俺は困ったことに、日吉に一方的に組み伏せられている今の状況を、本気で嫌だとは思えない自分がいることに気づいてしまっていた。
「……日吉、イジワルだ」
「んなこと、とっくの昔から知ってるだろ。お前は」
「うん。でも……」
でも同じだけ優しいのも知ってる。
そう考えた俺の横で、日吉は結局部屋の電気を消してくれたし、あおむけの姿勢が続いて疲れかけていた俺の頭の下に枕を入れることまでしてくれた。ベッドの脇には窓があり、カーテンを閉めていても結構な量の光がさしてくるから、どのみちある程度の明るさは確保されてしまったけれど。
昼下がりの光を背に受けながら、日吉は俺の横に膝をついた。
「……続き、するからな」
「うん」
「どこまでだって欲しい、って言ったな、お前。何されても文句は言わせないぞ」
「……うん。言わない」
短いおあずけを食らったせいで、正直なところ体はさっきよりも焦れてしまっていた。日吉は俺の肌着を鎖骨の下までたくしあげると、さっきより強い力で胸板に吸いついてきた。同時に脇腹をまさぐられて、ヘンな声が出る。
「へ。なさけねー声」
羞恥心で死にそうになる俺の上で、日吉はまた満足そうに笑った。
ちゅ、ちゅっ、と弱い音をたてながら、薄くやわらかな唇は俺の上体を点々と吸って回った。途中で俺のシャツと肌着を脱がせた日吉はやっぱり律義にそれらを畳み、わざわざ床の上に置きに行ったので、その間俺はまたおあずけを食らわなければならなかった。戻ってきた彼にネックレスを外され、胸の先を口に含まれると、むずがゆさが全身を通って足に達し、思わず爪先をギュッと丸めてしまった。
「日吉、……」
たまらなくなって名前を呼んだけど、言葉は続かなかった。日吉もなにも言わずに、俺の乳首を吸ったり舐め回したり、たまに噛んだりしていた。
「っ……ぁ、日吉、だめ」
「……悪い、痛かったか」
「違……、すっごい気持ちいい……」
「……ふうん」
休みなくいじりまわされて、どんどん硬くなっていくのがわかる。感覚が冴えたところに日吉の舌がねっとりとからみついてきて、それから唇でふわりと圧され、前歯で挟まれてビリビリくる。小学生のころからの友達にこんなことをされている、と意識するとあらためて照れが生まれ、よけい敏感になる気がした。
「日吉……こんなこと、どこで覚えたんだ?」
「……だいぶデリカシーがないと思うぞ、その質問」
「だって昔はあんなにちっちゃくてかわいくて、ナマイキでもちゃんと子供だったのに……」
「いや、それをお前が言うなよ。たかだか一、二年で二十センチも三十センチもデカくなりやがって」
日吉の後頭部に手を添える。窓からの陽を浴びて光るさらさらの茶髪は、撫でているだけで手のひらが心地よかった。日吉の唇はいつしか左側から右側へ移動し、唾液にまみれた左胸の乳首は指先で挟まれた。
あやすみたいに優しく撫でられたり、逆にねちっこくこねられたりするたび、体は正直すぎる反応を返す。ふぬけた声も、シーツの上で泳ぐばかりの腰の動きも隠したいのに、押し殺そうとすればするほど声は大きく高くなり、我慢したぶんだけ下半身は反動を見せてしまう。そうして結局なにも隠せずにいると、
「わかりやすいヤツだな、お前」
って日吉が得意げに笑うから、よけいに煽られる。
「やッ……ぁ、……ね、日吉、もしかして下調べとか、してくれてたの?」
「……だからっ、デリカシーのないことを聞くんじゃねえ」
「だって俺、うれしくて、日吉がこんなことしてくれるの……。付き合ってても、こんなふうに触ってほしいと思ってるのは俺だけなのかなって、ずっと心細かったから」
明日こそはきっと、と意気込んでは破れ、失望続きだった昨日までの100日間を思い出す。と、日吉はふいに俺の胸に歯を立てた。
「……お前が言うなよ、それも」
ジンとくる痛み。今はそれさえ甘かった。
「そ、そうだよね……。もし俺が、……んっ……俺があのとき拒否しなきゃ、もっと前から日吉とこういうこと、できてたのにな。もったいないことしちゃったな……」
「……ちくしょう。こっちは『もったいない』とか、そんな能天気な話じゃなかったんだが」
「ご、ごめ……っ」
いつもの冷静さとは違う目をして、100日間の——じゃない、彼にとっては1000日間の——分を取り返すみたいに激しく、日吉は俺の胸を責め続けた。右からと左から、別々の快感が同時に襲ってきて下腹をうずかせた。すでにズボンのベルトを締めているのも窮屈で、本当はもう自分で触ってしまいたいくらいだった。
日吉はやがて胸元を離れ、臍の近くに舌を着地させた。なだらかに割れた腹筋の山を登り、谷へ下り、筋肉のでっぱりをひとつずつ潰すみたいに、軽く圧迫をかけながらゆっくり這っていく。さっきほどダイレクトにクるわけじゃないけど、内側から痒くさせられる。
「はぁっ……」
肺の奥から、深い息が広がって出ていく。日吉は猫みたいに俺の下腹を舐め回りながら、同時に脇腹や腿の内側にふれてきた。臍の上、脇腹、鼠蹊部、腿、膝……中心だけを避けて周囲をまわるような手つきのなかで時折、彼の肘や手の甲がズボンの生地の向こうから性器にぶつかった。
「……っ」
ピクリと腰が振れる。日吉と目が合って、すぐにそらされる。毎日のトレーニングで鍛えた自分の上体の凹凸が、唾液に濡らされて光っているのが見える。上背のわりにはまだ物足りないと思っていた筋肉も胸板の厚みも、今はちょっとだけ邪魔に思えてしまう。
こんなことまでしてくれても、これ以上のことにはさすがに抵抗を感じるのかもしれない——男同士だし。俺は全部欲しいし全部あげたいけど、日吉は結局「どこまで」なのか教えてくれていない。
「……日吉、ごめん、俺」
「なんだよ。べつに謝らなくていいって言ったろ」
「や、そうじゃなくて……1000日前のこととかじゃなくて」
「え?」
はっきりと覚えているわけじゃないけど、あれは1000日よりも前のこと。ほかの友達も入れて数人でバレンタインだかクリスマスだかの話題になったとき、日吉はたしか、おしとやかで純粋で女の子らしい子が好き、みたいなことを言っていた。やっぱりマセた子供だというのはともかく、その条件に自分はあてはまっているわけがない(まず性別から違う)。
「えっと、……日吉がこれ以上は抵抗があるって思うなら、俺、トイレ行って自分で」
「え」
「ごめん、その、俺もう限界……だから」
「……」
日吉は黙った。黙ってから、「いや、なんでだよ!」と困惑らしき声を上げた。
「なんでって、だって日吉にこんなことされてたら」
「いやそういう意味じゃなくて……ここまできて今さら抵抗もクソもあるかよ。なんでそう肝心なところばっかり察しが悪いんだ」
「え……でも、だって日吉、……ぜんぜん触ってくれないから」
「……どこを?」
とイジワルな声で言って、日吉はまた腿の内側に手を入れてきた。膝の横から脚の付け根までを、じっとりと撫で上げられる。
「わ、わかってるくせに……」
あと数センチでふれる距離。日吉の手はギリギリの場所で旋回を繰り返し、その軌道が一周するたびに、俺の中ではものすごい量の血液が動いて中心へと流れ込む。
「や、だめ、もう……ほんとにもうダメだから……」
「ったく、こっちはわざわざ時間かけてやってたってのに」
「時間かけて、って……なんで?」
「そりゃ……性急に事を運びすぎて、もしお前に——」
「俺に?」
聞き返すと、日吉は眉を寄せて黙り込んだ。
「……なんでもない。昔お前を心霊スポットだの墓地だの廃道だのにいちいち連れて行ってやったのと同じ理由、だ」
「え……俺の弱った顔が見たいから、ってことか? 日吉、シュミ悪い……」
「うるさい」
抗議は一蹴され、次の瞬間、怒りにも見えるほど必死な瞳が目の前に迫ってきた。
「大体、ここまで俺のいいようにされておいて最後だけ自分で始末つけるとか抜かすな。おとなしく俺にイかされろ」
と言って、日吉は指先で俺の熱の先端を弾いた。
“でこぴん”みたいな手つきの、ほんの戯れ程度の接触。なのに、俺の体はそれだけで全身に鳥肌をたてた。
「……あッ、ぁ、やば……」
背中がのけぞる。大げさなくらい激しく。目の前で、日吉が興奮したように荒い息をつく。
「……っは。ガチガチじゃねーか」
「ご、ごめん……」
「今日だけで何回謝る気だよ、お前」
「ごめん……」
カチャリと音がして、日吉が俺のベルトのバックルに手をかけたのがわかった。
「腰、上げろ。脱がすから」
「ん」
自分で脱ぐ、って言えばよかった——と思ったときにはもう、ズボンが爪先から引き抜かれていた。俺は日吉の手からそれを奪い取り、ベッドの下に放り投げた。
「おい、シワになるぞ」
「あとでアイロンかければいいよ、そんなの。いちいち畳んだりしなくていいから、はやく」
はやく触って、って言いかけたところで、俺と同じくらい窮屈そうな、日吉のズボンの前の隆起が目に入る。喉がゴクリと唾を飲み下す。目線を上げていくと、シャツの襟から覗く首元はひどく汗をかいていた。手を伸ばしてその両襟をつかんだら、日吉はうろたえるように目を張った。
「ね、日吉も脱いで」
「いや、俺は……」
「なんで? やっぱり照れてるのか?」
「……そういうわけじゃないが」
今度は即答じゃないし、本当に照れているわけではないのかもしれない。
「……でも日吉もつらそうだよ。痛いだろ、それ」
ワイシャツのボタンを外して脱がせる。華奢な体の抵抗を制して、インナーシャツも脱がせてしまう。華奢だけどたくましく、たくましいけれど華奢に見える上体が、カーテンの向こうからの弱い光をうけて美しい陰影をみせる。
「日吉、こんなに綺麗なのに……なんで脱ぐの渋ったんだ?」
「綺麗とか、べつにそんなんじゃ……」
ぶっきらぼうな日吉の声は、語尾にかけて細って消えてしまった。
「……えっと、ズボンのほうも」
「っ……そっちは自分で脱ぐ!」
「え~、俺のは脱がせたくせに……」
性急に脱ぎ捨てたズボンを、日吉はもう畳まなかった。俺と同じように床に放り投げると、ベッドの端に座っている俺の横ににじり寄ってきた。
「つーかお前、ヤバいな、これ」
「……ん。あとで家族にバレないようにこっそり洗わなきゃ……」
薄いグレーの下着は前面が派手に濡れ、ごまかしようのない大きさの染みを作っていた。日吉はその上に人さし指を乗せ、濡れているところを爪の先で弱く引っ掻いた。
「うぁ……」
薄い下着の生地に、膨張した性器の輪郭がくっきりと浮き上がり、その上を日吉の指先がくすぐっていく。ギリギリまで張りつめた性感帯をむずがゆい刺激で焦らされる、味わったことのない感覚。もしかして日吉はひとりでするときにこういう触り方をしているのかな、と想像したら、よけいにドキドキが増した。
「日吉、それ、くすぐったい……っあ、だめ」
「……あのさ。お前にダメって言われると、本当にダメなのかと思って一瞬ひるむんだが」
「え……あ、ごめん、ダメじゃない……けど、ダメっ……」
あの洞窟の中で、1000日前の自分は「だめ」と言って日吉を拒んでしまった。でも、あのときの「だめ」と今の「だめ」は、ぜんぜん意味が違う。
「……ごめん。もっとしてほしい、って意味だから、これ……」
「……あっそ」
「その、……もっと強く触って?」
「あ、ああ……」
おずおずと遠慮がちに近づいてきた日吉の手が、隆起の表面を何往復か優しく撫で、それから全体を軽く握り込む。やわやわと揉むように押しては戻る。敏感になりすぎたところから、腰をとろけさせるような快感の波がどっと流れ込んでくる。
「っは、ぁ、やだ……」
「……その『やだ』も、言葉通りには聞かなくていいんだろうな?」
「んっ、うん……ごめん、俺、日吉に気を使わせてばっかりで」
「……脱がすぞ、これも」
下着が取り払われる。露出した性器はお腹にくっつくまで反り返り、先端を濡らしていた。
「破裂寸前、って感じだな。どんだけ欲求不満だったんだよ」
「……ごめん……」
みっともなく濡れた先端を、日吉の手のひらが包む。心地よい力加減で握られて、絞るようにこね回される。
「……っ、うッ……」
ベッドのヘッドボードに寄りかかった背中が暴れて、ガタンと音をたてた。神経そのものが直接触られているような、さっきまでとは比べものにならないくらい強烈な感覚だった。俺の体が暴れても日吉は手を止めず、いたたまれなくなった俺はとっさに片腕で顔を隠していた。
ふいに日吉の手が離れていき、そうかと思えば次の瞬間、屹立の根元に着地する。ひんやりとした指先の一点で、裏側をまっすぐ一直線になぞり上げられる。鋭い電撃みたいな快感が背筋を駆け上がり、脳天を衝く。
「……ひっ、ひよし……」
「うん?」
「…………」
口だけ動いて、舌は回らない。息ばかり出ていく。不規則な呼吸が、肩まで不規則に上下させる。
腕で隠した目元に、ジッと視線を注がれる気配がした。枕の端を握り締めていた片手が、日吉の手に持っていかれた。日吉はその手をくるむように持つと、反対の手で俺の性器を握って上下にしごき始めた。
「ぁ……はぁ……っ」
うわずった声が漏れる。単調な往復運動は徐々に速度を増しながら、やがて手つきを変えた。ねじるような回転で全体をしごかれる。逆手で持たれて、親指で根元を圧迫される。先端にある段差を指先でなぞられる。先っぽの割れ目をグリグリとえぐられる。目のくらむような刺激に、一歩ずつ的確に追いつめられていく。
腕の下から局部を窺い見る。あとからあとから先走りの液が湧き出しては流れ、日吉の手を濡らしていた。ふと頭の片隅に、あの洞窟の中で“日吉くん”が差し出してくれた幼い手のイメージが浮かび、一瞬だけうしろめたさで死にそうになったけれど一瞬で快感に上書きされてしまった。
「……おい、なんか言えよ」
「っえ……な、なんか、って?」
「だからその……良いとか悪いとか、言われないとわかんねーだろうが」
腕を下ろして、日吉の顔を見る。不安げな表情だった。
「……めちゃくちゃ気持ちいいよ。気持ちよすぎて死にそう……」
「いや、死にはしねーだろ」
「っていうか反応でわかれよ、それくらい……」
撫でられるだけで体が跳ね、腿や腹部の筋肉が不随意にひきつって、性器はますます赤く腫れていく。彼の手の動きのひとつひとつに体の自由を奪われて、強い目で見つめられれば心の自由すら奪われる。なさけないところは知られたくないと思っていたはずなのに、今は恥部までをさらけだして委ね、五感まで掌握されている。
「はッ……も、ヤバ……ひとの手で触られるのって、こんなに気持ちいいんだな……」
「……“ひとの手”じゃねぇだろ。俺の手、って言え」
「そんな、言わなくたって日吉だけだよ、こんなの」
ガチガチになった性器を握っている日吉の手に、グッと乱暴な力が入る。痛くて熱くて握り潰されそうで、それなのに気持ちよくておかしい。
「お、れ、の、手、って言え」
「……日吉の手でされるの、めちゃくちゃ気持ちいい……」
思惑通りのセリフを俺に言わせて、日吉は口角を上げた。勝ち誇ったような表情にゾクゾクさせられる。かわいいのもいじらしいのもいいけど、いちばん好きなのはやっぱりこういう顔かもしれない。
うれしそうに唇を曲げたまま、日吉はその唇を俺の胸に落とした。周囲の皮膚よりも色が濃くなっているところ、肌色と肉色のさかいめを舌先で舐め回されたあと、中心に吸いつかれる。小刻みに甘噛みされて、短くついばむように何度も何度もキスされる。そのたびに体が甘くしびれる。強く速くしごかれている性器からの快楽と混ざって、感覚が混乱するくらい気持ちいい。
「日吉、俺もう——」
腰の奥の奥、自分ではコントロールできない体の深部の筋肉が収縮して、性器を根元からピクピクと跳ねさせる。堤防は決壊寸前で、あと少し揺さぶられたら全部あふれ出してしまう。
「なんだよ。ちゃんと最後まで言え」
「も、もうイきそう、だから」
「だから?」
「……キスしてほしい。日吉にキスされながらイきたい……」
「……」
沈黙があった。日吉はあきれるようにため息をついてから、
「……お前さ。そんなこっぱずかしいこと、よく口に出せるよな」
と言って俺の唇を奪った。
「んっ……ぅ、ふッ……」
唇にあたるやわらかさ。口内の粘膜を舐めていく舌先の、たどたどしい足取り。つないだ片手をしっかりと握ってくれたまま、日吉のキスは彼らしくないほど優しかった。らしくない、と思ったけれど、今まではこんなことをする機会がなかったから知らなかっただけで、もしかすると昔から日吉はこういう人だったのかもしれない。昔から——“日吉くん”だったころから。
日吉の唇は俺の首筋に移動し、汗を舐め取るみたいに舌をすべらせていた。
「はぁ……やっ、だめ、きもちぃ……」
「ん……」
またキスが降ってくる。同時に、キスの優しさとは対照的に激しい手の動きで追いつめられる。体じゅうで血が廻る。凄い勢いの循環。乱暴なほどの衝動が全部、一番先っぽに集まる。もうホントにダメだ。
「日吉、ね、イっていい?」
「……いちいち許可とか取らなくていい。勝手にイけ」
「んっ、うん……あの、そこ……ティッシュ、あるから」
「え」
俺の意図を察したらしく、日吉はヘッドボードの棚のティッシュボックスから何枚かを引き抜き、俺の性器の先端にあてがった。ふわりとやわらかなその感触が、最後の糸を焼き切る。
「あっ……」
ただの射精、のはず、なのに、どっと体の中身すべてを持っていかれるような感覚。一気に引っぱられる。涙腺のあたりが熱を持つ。にじんだ視界のまんなかに、興奮の色をした日吉の顔がある。彼の手はまだ俺の熱を追い立てている。
「ッ……う、あぁ……だめ日吉、手、もうっ……」
「は……やべぇな、その顔。お前、そんなに……」
「手、とめて、ってば……!」
息が止まる。かと思えば破裂するように出ていく。俺は思わず手を伸ばし、日吉の背を力いっぱい抱きしめていた。
「おい、痛ぇっ……」
「だっ、て日吉、手、バカっ……」
「あ? お前にバカとか言われたくない」
下半身がガクガクと痙攣して、いつまでも収まってくれない。いつもよりずっと長い。日吉はようやく手を止めたけど、腰の奥から何度もしつこく波が来て射精は断続的に繰り返された。刺激が止まってしまったことが今はむしろ物足りなかった。濡れて破れたティッシュはもう用をなさず、日吉の手を汚してしまっているのがわかった。
「日吉、ティッシュもういちまい……」
「え……あ、ああ」
日吉の手からティッシュを受けとって、自分で自分の先端を覆う。根元のほうに残った残滓を押し出すように、強く握ってしごき立てる。
「はっ、あ、あぁ……」
「……はは。みっともないな」
日吉の声が、耳のすぐ近くから入ってくる。低く重く響いて頭の中いっぱいに広がる。
「ふだんは清楚ぶって澄ましてるくせによ。いつもいつも潔癖症の優等生みたいな顔しやがって」
「べっ別に、“ぶってる”とか無い……」
「よく言う。無垢な子供でいられなくなるのが怖かったから俺のことを拒んだんだろ、あのときだって」
「……それは」
「ほら見ろ、反論できないじゃねーか」
悪態をつきながらも日吉は俺の肩を抱き、俺の熱が落ち着くまで顔のあちこちにキスを続けていてくれた。言葉は強いのに表情には見るからに余裕がなく、必死な顔だった。
「はぁ、っ……」
何回か短い射精があったあと、最後の一回が弱々しく吐き出され——大きくて切ない息がひとつ、震えながら喉を出ていった。
体じゅうに溜まっていた力が一気に抜けて、首がくたりと落ちる。体が沈む。酸欠っぽい頭痛に、あとを引く体の震え。ぐんと深くなった呼吸を整えているうちに、ゆっくりと波が遠ざかる。
「……んだよ。結局最後は自分の手で処理しやがって」
「ご……ごめん、余裕なくて、俺……ほんとは最後まで日吉の手がよかったんだけど」
ティッシュ一枚では受けとめきれず、下腹部の一帯には白い粘液が点々と垂れていた。後始末をしなきゃ思うけれど、意識も体もぼうっと弛緩して、頭が回らない。ヘッドボードに寄りかかったままほうけていたら、やがてティッシュを持った日吉の手が腿に近づいてきた。
「じっ、自分で拭く……」
「ああ……それ、最後の一枚だったぞ」
「そ、そっか。あとで新しいの、もらっておかなきゃ」
こんなことで消費したなんて、家族には絶対言えない。精液を拭きとっているうちに頭はいくらか冷静さを取り戻し、数分前の自分の言動を思い出して強烈に顔を熱くした。床のゴミ箱にティッシュを捨ててから顔を上げると、(俺ほどじゃないだろうけど)気まずそうに赤面している日吉と目が合った。
思わず視線を下にそらす。しわくちゃになったシーツの上で両膝を立てて座っている日吉の下着の前面に、さっきより大きくなった膨らみが見えた。
彼のほうへ近づく。日吉のも触りたい——って口には出さなかったけれど、結び合った視線で伝わった。けど結び目はすぐにほどかれてしまった。
「……俺はいい」
「なんで?」
「……」
日吉は押し黙り、下着を隠すように膝を抱え込んだ。
「日吉、もしかして照れてる?」
「照れてない」
「あ、即答だ」
俺に触られるのが嫌なんだったらどうしよう、って不安もよぎったけれど、そうじゃないなら遠慮はできそうにない。体育座りの小学生みたいに縮こまった日吉の腕をつかんで開かせて、自分の膝で彼の膝を割る。充血しっぱなしの耳元に唇をよせて、髪の上からキスを落とす。
「っ……やめろ、よ」
「……俺、自分が『される』側なのは文句ないけど、俺ばっかり気持ちよくしてもらうんじゃ申し訳ないよ。日吉もちゃんとイって?」
「だからっ、その距離でそういうことを言うなって……」
毎日しっかりトレーニングをしていてよかった——なんて、こんなシチュエーションで実感している自分のどうしようもなさはともかく、両腕を押さえてしまうと日吉は案外あっさりとおとなしくなった。あるいは本気を出せば抵抗できるのかもしれないけれど、やっぱり今の状態のままではつらくて、観念する気になったんだろうか。
「えっと、じゃあ……日吉みたいに、うまくできるかはわからないけど」
「……べつに。うまくねーよ、俺だって」
「え、でもめちゃくちゃ気持ちよかったよ?」
と答えたら、日吉の下着の隆起がピクリと跳ねた。俺の言うことに反応してくれるんだって、うれしさが胸に満ちてくる。
白くてきれいなひざこぞうに唇をつける。膝にあてた舌を、腿へとすべらせていく。そうすると日吉の脚は弱々しく震えながら伸びていったから、俺も体の位置を低くした。ひざまずくようなかっこうになった。俺はまだ中学生で、外はまだ明るくて、親のいない家の中でまっぱだかでこんなことをしているのは絶対に悪いことだってもちろんわかるけれど、もっと感じ合いたい、って欲望は善悪を押しのけてしまった。こんな気持ちになるのも、生まれてはじめてのことだ。
「日吉、気持ち悪くない?」
「……余計な心配しなくていい」
「じゃ、気持ちいい?」
「……」
俺に両腕をつかまれたまま、日吉は目を合わせてくれない。痛くしてしまわないように腕からは手を離し、指を絡ませて両手をつなぐ形にした。そのまま肘で体重を支え、ビクビクとひきつっている日吉の内腿にくちづける。右、左、右、左……って交互に、一歩ずつ奥へ進んでいく。りりしく引き締まった腿の、毛穴がいっぱいに開いて汗を出している。
生地が黒いせいでわかりにくかったけれど、間近で見ると日吉の下着もしっかり濡れていた。
「……」
しょっぱいような、草いきれのような、においがする。
さすがに緊張が襲ってきて心臓がドクンと高鳴り、そしてその鼓動はすぐに興奮のドキドキへと転じた。上目でうかがうと、日吉はほとんど怯えるような目で俺を見下ろしていた。どっちかっていうと、この状況で怯むべきは俺のほうなんじゃないかと思うけど。
「その、……イヤだったら言ってね」
「……っ、おい、やめ——」
下着の濡れている部分にちょんと舌先をあてた瞬間、布の向こうで熱の塊がうごめいた。続けてキスをする。天を向いてまっすぐに反り返ったところの中心線を、舌の面を大きく使って舐め上げる。ふれてみるとそこは想像以上に硬く、ちろちろと舐めているうちにいっそう体積を増して下着のゴムのふちから先端を覗かせた。紅い肉の色をしていた。
「日吉、きもちい?」
「ッ……や、やめろって……」
「……ごめん、イヤだった?」
「違っ……けど、その、」
口ごもった日吉の、下着からはみ出た先っぽに短くキスをする。やらしい動きで揺らいだ腰が、シーツを引きずるようにズルズルと前へ滑り、背中は背後の壁に倒れていった。しばらく吸ったり舐めたりしていると、つないだ手の甲に爪が食い込んできた。顔を上げたら日吉は苦しげに眉間にシワを寄せていて、必死に快感に耐えているのがわかった。
「『けど、その』、何?」
「……そっ、そんなことまでしなくていい……」
返答の前に躊躇があった。本心では“してほしい”と望んでしまっているのが、ニブい(らしい)俺にすらバレバレだ。
「……猫に手とか脚とか舐められると、すごく気持ちよくてかわいいんだけどさ」
「え、……は?」
「あれってきっと舐めてるほうも気持ちいいんだろうなって、いま思った……」
気持ちいいし、それにかわいい。
「これ脱がせるね。腰、上げられる?」
「……だから、もういい、って」
「いいだろ、俺がしたいと思ってやってるんだから。その体勢だと疲れそうだし、寝っ転がっちゃってもいいよ?」
と促したら、日吉は逆に体勢を立て直すように上体を起こした。プライド高いなぁ、って思う。プライドの高い日吉は結局、俺に下着を脱がされることもいやがり、先走りの水気がしみこんだそれを自ら脱ぎ捨てた。
「あ。ねえ、じゃあこっちに座って」
「え……」
ベッドの端から脚を投げ出す体勢で座ってもらい、自分は床に下りる。日吉の両脚のあいだで膝立ちになって、また両手をつなぎ、彼の熱に鼻先を寄せる。
赤く腫れた欲望の塊。下着越しではなく直接、しかも至近距離で直視してしまうと、目をそらしたいのと同じくらい、ずっと見続けていたくなってしまった。
「……おい、あんまり凝視すんな」
「ん……」
日吉はもう「やめろ」と言わなかったから、俺はそこに遠慮なくふれた。遠慮なく——でも緊張はあった。深呼吸して唾をのむ。先端のつるつるとした部分を唇で挟み、舌を這わせてみる。数秒くらい舐め回ったところで日吉が猫みたいな声を上げ、腰をよじったので、それは俺の口からすぐに抜けてしまった。
「日吉のそんな声、はじめて聞いた……」
「忘れろ。永久に」
「やだ……っていうかムリ。たぶん一生忘れられないよ」
脳にこびりついて反響する高い声。もっと聞きたいと思って再び口をつけたけれど、日吉はやっぱり快感から逃げるように退いた。まどろっこしくなって、俺はつないでいた手をほどき、左手で彼の腰を、右手で性器を押さえた。そうしてあらためて屹立に吸いつくと、日吉は今度は苦悶じみた低いうめき声と、張りつめた息を吐きだした。
「はっ……ぅ、くッ……」
「あれ、さっきの声と違う……」
顔を上げると、日吉は解放された両手で自分の口を覆っていた。
「さっきの、いつもの日吉の声より1オクターブ半は高かったよな」
「……お前それ、絶対音感のクソ無駄使い……」
「ふふ。高いのも低いのも、どっちもかわいいけどね」
「っせえ……かわいいとか、ありえねー」
「え、全然ありえるよ?」
日吉が会話に気をとられているスキをついて、裏筋を舐め上げる。さっき自分が触られたときの日吉の手の動きを思い出しながら這う。
「っあ……」
限界まで押し殺された声が、でも少しだけ高くなった。
「……ほら。かわいい……」
「いや、お前な……男が男に言われて嬉しい言葉じゃないだろ、それ」
「……えー……」
胸の中がモヤッとして、俺はつい軽く歯を立ててしまった。日吉の腿がビクリと跳ねる。
「……じゃ、何? 女子に言われたらうれしいのかよ」
「……いや別にそういう意味で言ってねーよ! 揚げ足とるんじゃねえ」
「だ、だって……」
「だって何だよ。めんどくせー男だな……」
日吉はあきれた様子でため息をつき、俺の後頭部の髪を引っぱった。戯れにしては強い力だったから、ついムキになってしまう。
「だ、だって……俺は男とか女とか関係なく、日吉に言われたらたぶん嬉しいし……それに俺、日吉よりずっと背も高いし、鍛えてるから普通にゴツいし腕とかも太いし昔よりだいぶ体格よくなったし……そういうところで女の子と比べられたら、絶対に勝ち目ないからさ」
言葉にしてみると、それはわれながら女々しい拗ねだった。めんどくせー男、という評は悔しいけど正しい。
またあきれられるだろうと覚悟して日吉の言葉を待った。けれど、返ってきたのは想定外の反応だった。
「なんだそれ。嫌味か」
「えっ、なんで?」
わけがわからず聞き返す。と、日吉はさっき以上に強い力で俺の髪を引き、「お前よりチビでヒョロくて悪かったな!」と語気を荒らげた。
「えっ……そ、そういう意味で言ったんじゃないよ! そっちこそ揚げ足とるなよ!」
「いや遠回しに自慢だろ。くそ、ちょっとデカいからって毎日毎日見下してきやがって」
「見下して……って、単に見下ろしてるだけだろ? 身長なんて意思じゃどうにもできないんだから、無茶言わないでよ……」
日吉が俺に対してそんなコンプレックスめいた感情を持っていたなんて、ちっとも知らなかった。逆ギレみたいな言い分が、ちょっとだけかわいく見えてきてしまう。
「もしかして……脱ぐのを渋った理由もそれ? その、小柄なのが恥ずかしいみたいな……」
「俺は小柄じゃない。恥ずかしがってもいない」
「ご、ごめん」
たしかに平均値と比べれば日吉はむしろ長身の部類に入るけど、でも俺からはどうしたって小さく見えてしまうんだからしょうがない。昔は同じ高さに目線があったのに、いつのまにか見下ろすアングルに慣れてしまった。
「っていうか、日吉も十分めんどくさいじゃん……」
「なにか言ったか」
「……自分がそんなこと気にしてるなら、俺が気にする理由もわかってよ。日吉は小さくてもすっごいかっこよくて男前だけど、俺は別にかわいげがあるとかじゃないし……」
「……いや、お前それ本気で言ってるのか?」
「え?」
冗談なんか言う場面じゃない。視線とともに問い返すと、日吉はなにか気まずそうに目を泳がせた。
「……なんでもない。そして俺は小さくない」
「あ……ごめん」
ぜいたくな悩みなのはわかっているし、俺は急激に成長した自分の体に感謝こそすれ、コンプレックスを抱くことなんてなかった。好きな人からかわいいって思われてみたい——とかいう、はてしなく軟弱な自分の願望に気づいてしまうまでは。
なさけなくしょげていく俺の頭上で、チッと舌打ちの音がする。怒られるのかと身構えていると、日吉はふてくされたような顔で口を開いた。
「つーかさ。……男でも女でも他の誰かのほうがいいと思ってたら、こんなバカみたいに勃つかよ」
「……っ……」
「デカいのは体だけだな、あいかわらず。少しは自信持ってろ、俺にフォローとかさせるな」
「う、うん……」
ヤバい、うれしい——口元がにやけてしまうのを止められない。喜びをかみしめていたら、後頭部に日吉の手が乗った。さっき引っぱられたところを、何度か撫でられる。
「……悪い。髪、痛かったろ」
「ううん、大丈夫……ね、日吉。どういうふうにしてほしいとか、あったら言ってよ」
「え……」
「俺、やり方ちゃんと知ってるわけじゃないし。日吉のこと、気持ちよくしてあげたいから」
「……いや、でも」
逡巡らしき間があった。けど日吉は結局、後頭部に置いた手で俺をそっと自分の中心に引き寄せた。
「えっと、……こ、ここ」
「うん。舐めたらいい? それとも手で」
「なっ、なんでもいい。っていうか俺も、どうされるのがいいとかわかんねぇ。こんなの初めてだし……」
「そ、そっか」
日吉が指さしたところ、頂の近くを唇で押す。逃げられないように根元を押さえながら、丁寧に何度も舌で撫でる。テクニックも何もなく、それこそ猫みたいに舐めることしかできなかったけれど、頭上では途切れ途切れの速い息と、抑えきれなかったらしき喘ぎ声が続き、どんどん速く大きくなっていった。日吉の先っぽからは透明の液があふれ、舌ですくいとって飲み込むと、しおからいような苦いような独特のえぐみを喉に残した。
「……これ、こんな味なんだ」
「…………お前、本物のバカかよ……」
「え、ひどい」
険しい顔で快楽に耐えていたはずの日吉はいつのまにか、芯を抜かれたように頼りない表情になっていた。眼は潤み、すすり泣きのように鼻を鳴らす音まで聞こえる。そんなに余裕がない様子なのに、片手はずっと労うみたいに俺の頭を撫でてくれていた。
その手の動きがときどき乱れる。興奮してくれているのがわかってドキドキする。お臍の下がギュッと熱くなる。いったん舌を離し、口をあけて性器をくわえる。歯をあててしまわないように注意しながら、半分くらいのところまでしゃぶる。日吉の味と、においと、熱が、口の中をいっぱいに埋める。
「……っお前、それっ、ダメ……」
「んっ……それ、言葉通りの意味? それとも俺と同じ?」
「っ……」
さっきより深く、日吉の熱を口に入れる。口の中で前に後ろに跳ねる。摩擦で痛くならないように唾液を出し、舌をあてながら上下に動いてみると、あまり品がいいとはいえない水音がたった。日吉の腹筋はたえまなく波打ち、俺の胴を挟んだ両脚は爪先までピンと伸ばされていた。上目でうかがうと、日吉が感じるたびに反らされる首に骨や血管や筋肉のかたちが浮き上がるさまが見えた。美しい。
「っ、……お、鳳……」
「んっ?」
「こっち、手で……」
吐息まじりの声で言って、日吉は俺の片手を性器の根元にあてがわせた。
「あと、ここ……その、ひっかける感じで、っつーか……」
「ん……」
「っ……は、そう……で、緩急つけて……」
「ぅ、ん」
最初は及び腰だった日吉が、すっかり欲求に素直になって俺に指示を出す。ぜんぶ言われたとおりにする。日吉の片手はあいかわらず俺の頭を撫でてくれているけれど、その手つきは乱れ、髪を掻くようなしぐさに変わっていた。
「……悪い、こんなことさせて……」
「ふぇ、」
——気にしなくていいのに。俺だっていっぱい気持ちよくしてもらったんだし。
って言いたかったけど、口は埋まっているので言えない。日吉に教えられたとおり、口に入らない根元のほうを手でしごきながら、残りの部分を緩急つけて刺激する。先端へ上がっていくとき、下唇に力をこめて段差をひっかける。口の端から、自分の唾液なのか日吉の体液なのか判然としない液体が際限なく垂れていく。
「はッ……ヤバい、も、出る……」
「ん、」
「もう、いい……から、放せっ……」
日吉の腰が退いて、俺の中から出ていこうとする。瞬間、俺の片手は彼の背後に回り、逃げていくその腰をしっかりと抱き固めていた。
「おい、っざけんな……ッ、ぁ……」
強い怒声のあとに弱い声が落ち、口の中のものがぐっと硬くなる。あ、と思ったとき、喉の奥に鋭い痛みが刺さった。
「んっ……!」
息が止まる。まぶたの裏に星が飛ぶ。左右から髪をつかまれ、頭が乱暴に引っぱられた。日吉は自分の腰の動きを制御できなくなったらしく、俺の頭を鷲掴みにして喉の奥に性器を突き込んできていた。
「っ……う……」
深いところを何度か突かれる。衝撃が涙腺に伝わって涙を出す。咳をする余裕もないほど息苦しく、軽い嘔吐感のなかで喉からはヘンな音が出た。舌の上には精液らしき熱いものが溜まっていったけれど、吐き出すことも飲み込むこともできなかった。
十秒ほどで、それは終わった。果てた日吉はいくつか短い息をついたあと、ハッと我に返るように目を開き、床へと飛び下りた。テーブルに置かれていたハンカチを取って、俺の口元に持ってくる。
「だっ、出せ、口の中のモン……」
「……」
日吉は焦りはてた顔で俺の目を覗き込んでいた。その様子がいとしくて、俺は迷うより先に精液を飲み込んだ。ねばっこく喉にからみつきながら、食道へ落ちていく。むせるような咳が出て、半分くらいは日吉が持っているハンカチの上に吐き出してしまった。
「……あっ」
せきこんでいる俺の前で、日吉は小さく声を上げた。
「これ、お前の……。自分のハンカチと間違えて、俺、」
「……ん、大丈夫。洗えばいいし」
「……わ、悪い。ハンカチだけじゃなく全部、本当に……」
日吉は柄にもなく萎縮した様子でうつむいた。痛くされたのは俺なのに、日吉のほうが傷ついたような声だった。
「あんな無理やりみたいな……ごめん、っていうか、その」
「あはは。日吉に『ごめん』なんて言われたの、いつ以来かな……なんか別の人みたいだよ、日吉。もっといつもみたいにエラそうにしててよ」
「いやお前、茶化すなよ、こんなときに……」
「だって、日吉が謝る必要ないだろ。俺が勝手に始めたことだし、最後だって俺が先に無理やり押さえつけたんだしさ」
気を使うわけじゃなく、本心からそう思う。日吉はようやく表情を戻した。
「……そ、それもそうだな……?」
「そうだって。ね、もう一回そこ座って?」
日吉の性器のまわりにも精液が残っていたから、全部舐めとって綺麗にした。俺の喉元が嚥下のために動くのを、日吉は信じられないものを見るような目で見下ろしていた。
「お前、いかにもおとなしそうな顔してるくせに……っていうか実際気弱なくせに、ヘンなところでクソ度胸あるよな……」
「そうかな。自分ではよくわかんないけど……でもたしかに、そうじゃなきゃ小学生のころから日吉と友達なんてやってないかもな」
「……」
不機嫌そうにムスッとしながらも、日吉は手の甲で俺の口元の汚れをぬぐってくれた。そのあとはいたたまれないような、面映ゆいような沈黙が流れた。窓の向こうの空はまだ夕方の手前の、うすい水色をしていた。
「……ちょっと休むか」
「う、うん」
ベッドに上がって、ふたりで掛け布団にもぐる。裸で布団に入るなんて初めてだけど、ふわふわの羽毛布団が肌に直接ふれて心地よかった。
「あ、そういえば試験勉強……」
「……まともにアタマ働く気がしないな、今やっても」
「そうだよね。俺も……」
布団の下で膝がぶつかる。頭を抱き寄せられる。しばらくじゃれあったあと日吉が上に乗っかってきて、キスをしていたら俺のも日吉のもあっというまに復活してしまった。ついさっき大量に出したばかりなのに、硬くなったそこをひと撫でされるだけで内部に熱い流れが通るのがわかった。
「俺、なんかもう……この先ずっと、自分でするんじゃ満足できなくなりそう」
「え?」
「だってあんなに気持ちいいの、知っちゃったらさ。もう日吉の手じゃなきゃイけなくなっちゃったんじゃないかって……」
日吉はふいに手を止め、ぎこちなく泳ぐ視線で俺を見た。
「な、何? その顔」
「……お前みたいなヤツでも、その……普段からひとりでしたりするんだなと思って」
「俺みたいな、ってどういう意味だよ」
目をそらされる。日吉はどこか自己完結的な口ぶりで、ぼそぼそと言葉を続けた。
「いや、まあ男なんだから当然のことではあるんだが……幼稚舎のころの、やたらめったら純真っぽかったイメージが頭に残りすぎてるのかもな」
純真っぽ「かった」ということは、今はそうは見えないんだろうか。昔あった純真さが今はもう消えているんだとしたら、それは主に日吉のせいだけど。
「……正直かなり抵抗あったよ、最初は。知識として知ってはいても、“いけないこと”って感じて……。でも」
「でも?」
「その、……日吉のことを好きだって自覚した日から、するようになって」
「え」
「……が、ガマンできなくて……」
「……」
そらされていた視線が戻ってきて、今度は俺のほうが目をそむけたくなった。もしかしなくても、自分は今ものすごく恥ずかしい告白をしてしまった。
日吉の目をこわごわと覗き返す。内心の読めない表情をしていた。
「……ごめん、気持ち悪かったかな」
「い、いや別に気持ち悪くはないが……」
ないが、の続きはなかった。追及する勇気も、なかった。俺の上に覆いかぶさったままの日吉の喉仏が、唾をのむように上下するのが見えた。
「……何を考えてしてるんだ、そういうとき」
「いっ、言うかよ、そんなの!」
「俺にできることなら再現してやってもいい——と言ってもか?」
不敵な笑みを浮かべながら、日吉は俺の頬を撫でた。その誘惑はあまりにも魅力的だったけれど、俺にも一応プライドはあった。
「……言わない。言わなくても、もう結構叶っちゃったし……残りもたぶん、そのうち叶えてもらえる気がするし」
頬を撫でていた手が止まる。日吉はギュッとまぶたを閉じ、眉間に何本もシワを寄せ、唇を真一文字に引き結んで、顔じゅうの筋肉に力が入ったような形相になった。えっ何、と思った次の瞬間、せっぱつまった響きの声が飛んでくる。
「……ああもう、なんなんだよお前!」
「どっ——」
どうしたの、って続けかけた声が引っこむ。日吉の上体が突然ドサリと落ちてきて、俺の胸を圧迫したから。
「なんでこんな……自分よりずっとデカい男に対して、かわいい、とか思わなきゃなんねーんだよ……っ」
「…………へっ」
耳を疑った。幻聴だろうって本気で思った。けど日吉は俺の胴に腕を回して強い力で抱きしめながら、
「……クソ、かわいいな……」
って、唇の先が耳たぶをかすめるくらいの至近距離で呟いた。
「え、……えぇ!?」
ヤバい。異常事態だ。日吉が俺に対して「かわいい」とか、正気だったら絶対言わない。
「ひ、日吉、お前なんかおかしいぞ……」
「そうだよ、おかしくされてんだよ、お前に!」
言われたらきっと嬉しいと思っていた言葉だけど、実際に言われると混乱が先立った。体が燃えるように熱くなった。そのまま燃え尽きそうだった。
全身の毛穴がいっせいに開いて汗を噴く。布団の下で、股のあいだに入ってきた日吉の腿に性器を押し撫でられる。雑な刺激。なのに一気に限界の手前まで連れていかれる。
「ダメだ、もう、こんな……今日だけでも何回思わされたかわかんねぇ」
「ま、待って日吉、だめ」
「俺に向かってかわいいかわいいって、お前のことを犯そうとしてる男に対して能天気すぎるんだよ。お前のほうがよっぽどかわいいだろうが!」
「……ほっ、ホントに待って! ちょっと刺激が強すぎるからっ……!」
内容が内容なうえに、間近で言われるから物理的な声の振動そのものにまで耳がやられる。ゾクゾクする痺れの激流が何度も何度も体を貫く。このまま心臓が潰れて死んでもおかしくないくらい胸が苦しくて、ちゅっと水音のあるキスで耳のふちを吸われたときは本当に死ぬんじゃないかと思った。
「……はぁっ、かわいい……」
息が。声がかかる。熱く耳に。
「だめ、ダメだよ、俺それ言われるだけで……っ」
日吉に抱きしめられた体がビクンと跳ね、俺は本当にその言葉だけでイってしまった。甘すぎる混乱の中で確かに果てた感覚があった。なのに射精はしていなかった。ますます混乱する俺の耳元に、間をおかず追撃の言葉が打ち込まれる。
「もっとしてほしい、って意味なんだろ? それ」
「っ……違……これはホントにダメっ……!」
「嘘つけ。俺の言葉ひとつでイかされるとか、どんだけ俺のことが好きなんだ。ガキのころからずっと欲情させられてたこっちの気も知らないで」
「……ひ、よし、俺もう降参するっ、からぁ……」
「うるさい。今までの分、全部キッチリ聞かすまで死んでも放さない」
白旗を掲げても、負けることすら許してもらえない。日吉はタガが外れたみたいに、俺の耳元で甘い言葉を囁き続けた。
その甘い言葉と重い声と耳を犯すようなキスの嵐に感じさせられては果て感じさせられては果て、感じすぎて限界を迎えた俺の体がすっかりダメになってしまうまで何度も、何度も、何度も。
◇◇◇
エピローグ
あすは夕方から夜にかけて雨になるでしょう、と天気予報は言っていた。だけど学校に着き、最初の科目の試験が始まるころにはすでに雨が降りだしていた。俺は窓際の席で、校舎の壁を叩く雨音を聞きながら試験を受けた。
きのうは結局、家族が帰ってくるまでずっとベッドの上にいた。家族が帰ってきてからはさすがに床に下りたけれど、やったことは同じだった。ふたりしてクタクタになり、放心した様子で荷物をまとめた日吉が帰っていったあとも、ひとりで部屋にいると脳内のスクリーンには昼間からの一連の出来事の記憶が延々と映し出された。かといってリビングで家族と顔を合わせているとうしろめたさが胸にあふれ、挙動不審を悟られそうだったので、体に入った残り火が鎮まるまで自室で悶々とするしかなかった。
そんな調子だったから勉強なんてできなかったのに、試験の手ごたえは上々だった。最後の科目の試験が終わったあと、自席で自己採点をして好調すぎる結果に驚いている俺の頭上に、クラスメイトの声がかかった。
「鳳、テニス部のヤツが廊下で呼んでるぞ」
「……ああ、ありがとう。すぐ行くよ」
昨日の今日で、しかも学校の中で顔を合わせるのはさすがに恥ずかしいな——と緊張しながら廊下に出ていった俺の眼前に突然、なにか四角いモノが突き出される。反射的に受け取ると、それは小さな紙袋だった。
「……きのう借りたハンカチ、洗濯しておいたから」
と不愛想な小声で言って、日吉はそっぽを向いた。
「え、ハンカチなんて貸したっけ?」
「……」
「……あっ」
何秒か遅れて悟り、瞬時に耳が熱くなる。日吉は人目をうかがうように、キョロキョロと周囲を見回してから続けた。
「あんな汚れ方したんじゃ、もう使いたくないかもしれないが……かといって借りっぱなしというワケにもいかないし。今度、あらためて新しいのを買って返すから……」
「やっ、そんなのいいよ! いらないよ、新しいのなんて」
律儀な日吉はきっと、きれいにアイロンまでかけて返してくれたんだろう。このハンカチが汚れたのは日吉のせいじゃないのに。
「……じゃ、用は済んだから」
「ま、待って」
去っていこうとする日吉の背中に声を投げる。日吉は呼び止められることをわかっていたように、勿体をつけてこちらを振り返った。
「雨、夕方からって予報だったから……カサ持ってくるの忘れちゃってさ。途中まで入れてってくれないか?」
俺のへたくそな嘘なんて日吉には見抜かれる。見抜かれるのを承知でついた嘘だってことも、やっぱり見抜かれているだろう。
「……仕方ないな。そのかわり傘はお前が持てよ」
「うん。俺のほうが背も高いしね」
校舎を出、一本の傘に二人で入って、昨日と同じ帰り道をたどった。日吉とは今日まで何年間も、数えきれないほど雑談を交わしてきたはずなのに、今日の会話はぎこちなくつっかえては途切れ、繋ぎ直してもすぐにつまずくばかりだった。試験のことだけだって話題はいくらでもひねり出せただろうけど、どうしても昨日までのようには話せなかった。強くなってきた雨が傘を打ち、その音がなんとなく沈黙をごまかしてくれることがわずかな救いだった。
俺の鞄の中には折り畳み傘が入っている。それを見抜いているはずの日吉は、だけど家の玄関の前まで俺を送ってくれた。
「ごめんね、家まで来てもらっちゃって。よかったら今日も上がってく?」
ここまで送らせてしまって申し訳ないからせめてお茶でも飲んでいってほしい——という意味で言っただけだった。でも次の瞬間、日吉が派手に赤面したので、俺は自分の言葉がとんでもなく大胆な誘いに聞こえてしまった可能性に気づいて慌てた。
「違っ……そういうことじゃなくて! ちょっとお茶でも飲んで休んでいってほしいなって思っただけで別に他の意味とか全然」
早口になりすぎた言葉のしっぽが、不自然にプツリと切れる。これは嘘じゃないのに、こんな言い方をしたらまるで嘘みたいだ。
玄関のポーチの手前で、傘の空間のなかに、何度目ともしれない気まずい沈黙が流れた。日吉は俺の手から傘の柄を受け取り——というより、奪い——、「やめておく」と呟いた。
「この家のなか入ったら、どうせ明日の試験、捨てることになる」
「……そ、そっか」
「今日はなんでか、たまたま調子よかったけどな。そんな都合のいい偶然が続いてくれるとも限らないし……」
「あ、日吉も? 俺も今日は調子よかったよ」
ふうん、と喉を鳴らして、日吉は黙り込んだ。じゃあまた明日、とか言うような雰囲気でもなく、俺も一緒に黙り込むしかなかった。
日吉のシャツの肩が雨に濡れていた。彼のほうに傘を傾けようと思ったとき、
「お前さ」
と、低い声が届いた。
「きのうの帰り道で言っただろ。“友達”の家、って」
——あ。
「……ごめん、気にしてた?」
あのとき日吉は表情を変えなかったから、てっきり気にとめていないものだと思っていた。「友達」以外のものを意識しているのは俺のほうだけなのかと考えて不安になった。あれからまだ二十四時間しか経っていないなんて、ちょっと信じられない。
突然、頭のてっぺんに傘の骨組みがぶつかる。日吉は傘ごと俺の頭を自分のほうに引き寄せると、至近距離でジッと睨みつけてきた。
「もちろん『友達』だって、やめてやる気はないが——」
唇に唇を押しつけられ、勢いが過ぎて前歯同士がぶつかった。強引で拙いキスのあと、日吉は俺のネクタイの結び目をつかんで引っぱった。首が締まる。
「『友達』だけじゃないからな。もう絶対、俺のこと拒むな」
「……うん。日吉もね?」
これから100日経っても1000日経っても、その先もずっと。
[23.03.04]