[説明・注意書き]
「前日の夜に日吉くんの写真を使って自慰をしてしまった鳳くんが罪悪感を抱えながら初デートに行く話」です。
本番なし、性描写はぬるめ。
「攻めが受けに対して、自分が見ている前での自慰を強要する」描写を含みます。
序盤やや湿っぽい(?)ですがオチはバカップル感強めです。
夢のおわり春のはじまり
初デートといっても、行き先は隣町の公園と商店街。しかも商店街に行く目的は部活の買い出しだったから、これはデートですらないのかもしれない。
だけど、もっとロマンチックな場所に行ってみたかったという落胆よりも、安堵のほうが大きい。日吉とは小学生のころからあちこちに出かけてきたから、いまさら“それらしい”ロケーションを用意されても、かえって緊張してしまいそうだ。
今まで行ったことのない場所にも、もちろんいつかは行ってみたい、ふたりで。でも今はとりあえずこれくらいの舞台がちょうどいいやと、俺は穏やかな気持ちで今日この日を待っていた。
きのうの夜までは。
「そっち、ひと口もらってもいいか」
「え……っと、いっ、いいよ……」
「……なんだよ」
雲ひとつない三月の空の下、公園の湖のそばのベンチの上で。抹茶色のソフトクリームを持った日吉は、怪訝な顔をして俺を覗き込んだ。
「お前、今日ヘンだよな」
「べっ、べつにどこもヘンじゃない、けどっ!?」
「いや、その反応がすでにヘンだろ」
日吉の言うとおり、今日の俺はヘンだ。せっかくふたりでいるのに、どうしても日吉の目が直視できない。顔も見られないし、会話すらままならない。それもこれも全部、ゆうべの一件に起因している。
——あんなことをしてしまったら、本人の前で冷静でいられるわけがない。
日吉は木のスプーンで俺のソフトクリームをすくい取り、口元に持っていった。唇のすきまから現れた細い舌先が、バニラ味のそれを舐めとっていく。
「お前もこっち、食べるか」
「やっ……だ、だいじょうぶ……」
「……いい加減にしろよ」
のどかな休日の公園の景色には似合わないくらい、日吉の表情が険しくなる。判決を読み上げられる直前の被告人ってこんな気分だろうかと考えながら、俺はただ次の言葉を待つことしかできなかった。
「朝からずっと挙動不審で会話もろくに続かないし、目も合わせねーし。俺に失礼だろうが」
「……ご、ごめん……」
「最初は単に緊張してるのかと思ったけどさ。今日は一応、その、あれだし……。けど、そういうレベルの話じゃないな」
日吉の追及が、俺の額にイヤな汗を噴かせる。手の中でソフトクリームのコーンにヒビが入り、溶けたクリームが指に垂れてきたけれど、それを拭いたりする余裕もなかった。
「鳳、俺に何か隠してるだろ」
鮮やかな直球が頭を撃つ。前にボウリング場で宍戸さんが見せてくれた、正面からまっすぐ一直線に決まる見事なストライクの映像が脳裏に浮かぶ。
「かっ、隠してない……」
「お前、自分が嘘とか隠し事とかド下手なの、自覚してねーのかよ」
「隠してない!」
大声を上げてしまった俺の前で、日吉は眉間のシワを増やした。それは怒りというよりも傷ついたような表情の動きだったから、俺は動揺した。
「……俺には言えない話、ってワケか」
「いや、違っ……わない、けど……でも、そうじゃなくて」
「そうじゃなくて?」
日吉の顔がぐっと近づいてきて、思わず顔をそらしてしまう。青空を映した湖の上を、白鳥のボートが進んでいくのが見えた。
たとえどんなに強く問いつめられても怒られても、今日だけは口を割れない。俺の意思は固い。——そう自分に誓った瞬間、ソフトクリームはいよいよ膝に垂れた。さすがにハンカチを出して拭こうとしたけれど、
「あのさ」
と続いた日吉の声が思いがけず弱々しかったから、クリームはズボンに落ちたままになってしまった。
「なにかしたか、俺」
「え」
「……っていうか、まぁ、思い当たるフシはあるんだが」
「え?」
「俺の言葉足らずにもお前は慣れてるだろうって、多分いつも甘えすぎていて……どこかでよくない誤解をさせたなら、悪かった」
ガラにもなく気弱な言葉を並べ始めた日吉を見て、俺はぎょっとした。まさか日吉が俺の挙動不審をそんな方向から気にしているなんて、ちっとも思わなかったから。
「今日だってもっと気のきいた行き先とか、考えられていたらよかったし……」
「い、いや、ちょっと待って日吉!」
あわてて日吉の言葉を遮る。抹茶ソフトを見下ろしていた日吉の視線が、俺の目元に戻ってくる。
「これは全部、俺ひとりの問題で……。日吉は何も悪くないし俺は何も誤解してないし、一緒に買い物するのもこの公園を回るのもすっごく楽しかったし、言葉足らずとか思っ……てはいるけど、俺、そういうところも含めて日吉が好きだし……」
弁解のように舌を回す俺の前で、日吉の顔は安堵の色になった。安堵の色になって——それから、ふたたび疑念のそれに塗り替えられていく。
「じゃあ、『俺ひとりの問題』ってなんなんだよ」
——うわ墓穴ほった。
「お前、俺に気をつかって適当にフォローしてるんじゃないだろうな」
「違うよ! これは本当に俺だけが悪いから……」
「本当にお前だけが悪いかどうかなんて、聞かないとわからないだろ」
「それは……言わなくても絶対ぜったい、百パーセント俺だけが悪くて。だから」
「だから?」
間近から強い目で問いつめられて、今度は目をそらせなかった。こんな状況でも日吉の目が美しいせいで、俺の脳はうっかり、ゆうべ見ていた画像を鮮明に思い浮かべてしまった。——思い出さないようにしていたのに。
「だから、……正直に話して、日吉に嫌われたくない……」
「はあ?」
怒りと困惑が混ざった声で、日吉は叱責のように語尾を上げた。嫌われるかもしれないような話なのだと、半分白状したのも同然だった。
「んなこと言われたら尚更、聞かずに引き下がれるかよ。さっさと吐け」
「やだってば!」
「つーか今さら嫌いになるとか、ありえないだろ。そうやって一人で勝手に卑屈になるところは嫌いだが」
「ひっ、ひとことで矛盾するなよ!」
喉の奥にヘンな力がこもっていた。ほとんど泣きそうだった。このまま日吉に問いただされていたら、自分はそのうちすべてを白状してしまうだろうって予想ができたから。
シャツの下で冷や汗がとめどなく流れる。“針のむしろ”ってこういうことなんだと、生まれて初めてリアルに理解する。
「……心外だな」
と言って、日吉は舌打ちをした。
「お前が何を隠しているのかは知らないが、そんなに簡単にお前のことを嫌いになれるような薄情な人間だと思われるの、フツーに胸糞悪いだろ。仮にそういう人間だったら、休みの日にこんなところで男二人で恥ずかしげもなく並んで座ってこんなモン食ったりするかよ」
「……日吉」
さっき怒りと困惑が混ざっていた声に、今度は照れも加わっていた。日吉なりにせいいっぱいのデートコースを考えてくれていたんだ、と分かってしまったら、さっきとは違う意味で泣きそうになった。
「……ごめん。俺、ぜんぶ話す」
罪悪感でつぶれた心は案の定、あっけなく白旗を掲げてしまう。日吉はにわかに緊張の面持ちになり、「お、おう」と声をつっかえさせた。
抜けるように高い空から、真昼の陽が降りそそぐ。反射でキラキラ光る湖面も、その上でボートをこいでいる人たちの笑顔も、湖を取りかこむ開花前の桜も、自分の隣に座っている日吉のたたずまいも——俺以外の景色は全部、美しい。
「日吉の、写真……」
「写真?」
「……そのっ、べつに見ようと思って見たわけじゃなくて。きのうの夜、寝る前になんとなくスマホの画像フォルダの整理してて……。合宿で撮ったやつとか、みんなで遊びに行ったときのとか、いろいろ見てたらたまたま、偶然、日吉の写真もあって」
「なんだよ、まどろっこしいな。結論から言え」
「……う」
口の中に、あとからあとから唾がわいてくる。飲み下す。ゴクリと露骨な音が鳴る。日吉にも聞こえてしまっただろうか。
顔を上げていることに耐えられなくなってうなだれたら、ベージュ色のズボンの生地の上で、さっき垂れたクリームが白い染みになっているのが見えた。その染みに目を落としながら、俺は呼吸といっしょに言葉を吐き出した。
「日吉の写真っ……見ながら……その、ひとりで、しちゃって……」
「……え」
「ほっ、ほんとにごめん! 軽蔑してくれて構わないから……」
「……」
真昼の明るさとは正反対の、後ろ暗い告白をした俺の隣で、日吉は沈黙した。俺は判決を待つ被告人をとびこえて、処刑を待つ罪人になった気分だった。
沈黙が、何秒続いたのかもわからない。ふいに隣で空気の動く気配がして、俺は反射的に顔を上げた。日吉はなにか脱力したように肩を落とし、ベンチの背もたれに倒れて大きな息を吐き出した。
「……いや、そんなことかよ……」
「そ、そんなことって」
「お前、世界の終わりみたいな顔してるからどんな深刻な話かと思ったら……。ムダにビビらすんじゃねーよ」
「え……でも、だって、……気持ち悪くないの?」
怒られたりヒかれたりするものだと思っていたから、想像よりずっと軽い反応にうろたえる。日吉はふたたび黙り込み、思案顔になった。湖か、どこか遠くを見つめるように。
「……気持ち悪くないし軽蔑しないし嫌いにもならない。けど」
「け、けど?」
ザッ、と乾いた音がする。日吉の靴が地面を蹴った音だった。
「腹は立った」
重い声が胸にのしかかる。俺に傷つく資格なんてないのに。
「……ごめん」
「なんで謝るんだよ」
「なんでって……」
「お前、俺が怒ってる理由も分かってないだろ」
日吉の鋭い視線が俺を刺す。
「理由も何も、俺が日吉を……、け、汚すようなことをしたから」
いっそ消えてしまいたいと思いながら言葉を続けた俺の横で、日吉はものすごく不機嫌そうに表情をゆがませた。でも何も文句は続かなかった。
「お前、まだ時間あるよな」
「えっ……うん、きょうは一日空けてあるけど……」
質問の意図がわからない。困惑していると、日吉は俺が持っているバニラソフトを指さした。
「それ、残り片付けろ」
有無を言わせぬ調子で命令して、日吉は自分のソフトクリームの残りを食べ始めた。俺も言われたとおりにしたけれど、味なんてわかったもんじゃなかった。
ソフトクリームを食べ終えると、日吉はベンチから立ち上がった。
「行くぞ」
どこに? ……って、聞きたくても聞けない。見えない手錠で引っぱられて、俺はただ日吉のあとをついていくことしかできなかった。
***
最初は本当に、なんの気なしに画像の整理をしていただけだった。
ベッドの中でスマホの画面を眺めて、みんなとの思い出にひたりながら。すい、すい、とテンポよく画面をスワイプしていた親指の動きが、ある一枚の写真によって止められてしまうまでは。
「……うわ」
って、思わず声が出た。目が画面に縛りつけられて、そこから動けなくなった。美しい絵画を目にして見とれてしまうときの感覚にも似ていたけれど、それだけじゃなくて、もっと深く五感を支配されるような恍惚が起こった。ずっと見ているうちに体が熱くなり、息は深くなって、口の中には唾がいっぱいわいてきた。
合宿で撮った写真だ。画面の中で、日吉はベンチに座り、上体をかがめてタオルで顔の汗を拭いている。それだけ——といえばそれだけの写真だけど、カメラを見すえる彼の目があまりにも強く、練習直後の上気した肌を流れる汗も、陽を受けて輝く繊細な髪の流れも、ハーフパンツの裾から覗く細い腿も、全部が綺麗だったから、俺の中では“それだけ”で終わらなくなってしまった。
布団の下で、自分の腰はいつのまにか不安定に泳ぎ始めていた。これ以上はヤバいって直感したけれど、どうしても目を離すことができなくて、拡大したり縮小したりしながらその写真を見続けていたら、体の中の血はあっというまに下半身に集まった。
罪悪感で死にそうになった。ここで引き返さなきゃダメだって、理性が警鐘を鳴らしていた。だけど空腹がいつも理性を負かすように、眠気がいつも理性を負かすように、その衝動も絶対的な力で俺の理性をなぎ倒した。リモコンで部屋の電気を消し、日吉の写真を映したスマホを持ったまま、片手をパジャマのズボンの中に入れた。
考えようとしなくても夢想は際限なく生まれてきた。いつもの甘い夢が、いつもより格段に肉感的な輪郭を伴ってリアルに立ち現れるようだった。一回の射精ではまるで収まらず、二回、三回と回数を重ねるごとに罪悪感がふくらんだ。やめられなかった。やっかいなことに、罪悪感が増すほど快楽も増すのだった。今までに経験したことのない、わけがわからないくらいの気持ちよさだった。
続けて四回も出したのなんて初めてだった。さすがに疲れ、無心で後始末をして寝床に入った。だけど眠りのなかでさえ、俺を出迎えたのは罪深い夢だった。覚醒しているときと違って無意識のストッパーが外れているせいか、眠る前に見ていたそれよりもずっとはしたなく、ずっと魅惑的な夢に呑まれ、そして夢精と同時に目がさめた。
部屋を出ると、家族はまだ眠っていて、家の中はしんとしていた。すりガラス越しに早朝の弱い光がさしてくるバスルームで、息をひそめて下着を洗った。着替えてから庭に出てみると、勝手口の近くに植わっている桃の木の下枝で、小さな花がほころんでいるのが見えた。冬の終わりを告げるような、今年初めての開花だった。俺は少し泣いた。
***
エア手錠をかけられた俺が連行された先は、日吉の家だった。
数か月ぶりに足を踏み入れる日吉の部屋は、数か月前とも数年前とも変わらない、手入れが行き届いて整然とした空間だ。日吉は部屋の奥の壁際まで俺を誘導すると、
「そこに座れ」
と、床に置かれた墨色の座布団を顎で指した(幼稚舎のころにこの部屋で、「これは黒じゃなくて墨色っていうんだ」と教えられたから、この座布団のことはよく覚えている)。
命じられるがまま、座布団に腰を下ろす。と、日吉も床に座り込んだ。
「……あの、日吉も座布団」
「いらない。畳だし」
「そ、そっか」
何を言われるのかとビクビクしている俺の前で、日吉は口をつぐんだ。
重苦しい沈黙。公園を出てから今まで、ずっとこの調子だ。あんな話をしたら怒られるのは当然だけど、こんなふうに無言で圧迫されるような怒られ方は想定していなかった。普段は少しでも不満があれば、容赦なくストレートに口に出してくる日吉なのに。
やっぱり改めてきちんと謝ろう、と考えた俺が口を開くより一瞬早く、沈黙は破られた。
「どれだよ。写真って」
「え」
「お前がヌくのに使ったっていう写真。見せろ」
「えっ……」
あけすけな物言いと予想外の命令に、服の下で皮膚が脂汗をかく。声を出せずにいると、日吉は俺のズボンのポケットに手をつっこみ始めた。
「スマホ出せ」
「やっ、やめろよ! スマホはバッグの中だしっ……」
日吉の手がポケット越しにきわどいところをかすめて、それだけで心臓がバクハツしそうになる。次の瞬間、日吉の視線が今度は俺のバッグを向いたから、俺はあわててそれを腕の中に確保した。
「俺の写真、なんだろ? 肖像権の侵害だぞ」
「しょ、肖像権ってそういうことじゃない……」
「うるさい。お前、断れる立場かよ」
「う……」
そうだ。実際、俺に断る権利なんてない。罪は百パーセント俺にあって、日吉は被害者なんだから。
「……わかった。見せるから……」
バッグからスマホを取り出して、例の写真を表示させる。日吉はそれを受け取ると、画面を見て目を細めた。
「これ……ああ、合宿のときのか。なんでこの写真なんだ?」
「なんでって……だってその写真の日吉、めちゃくちゃかっこいいから。もちろん生身がいちばんだけど……」
「ふーん……」
そのまま人質に取られるのかと思ったスマホは意外にもすぐに俺の手元に戻ってきたので、俺はとりあえずホッとした。——日吉が次の言葉を発するまでの、つかのまの安堵だったけれど。
「で、これ見て何考えてヌいたんだ。最初から最後まで全部説明しろ」
「なっ……」
さすがに絶句した。日吉はいつもどおりの冷静な顔をしていた。
「……せ、説明するかよ、そんなの!」
「だからお前、断れる立場じゃないだろ」
「それはそうだけど……。でも罪人にだって、黙秘権はあるんだよ」
「ハッ」
あざけるような短い笑い。ドン、と乱暴な音をたてて、日吉は俺の背後の壁に勢いよく手をついた。ぜんぜんロマンチックじゃない、怒りに満ちた「壁ドン」だった。
「公正な裁判、とかをやってるわけじゃねぇんだよ。これはお前が、俺に対して、誠実であるかどうかの問題だ」
「誠実で……」
さすが付き合いが長いだけあって、日吉は俺の良心をえぐるのがうまい。罪悪感の核心を的確に突いてくる。
「……で、でも。俺にも一応、プライドがあって」
「へえ。お前に勝手に慰み物にされた俺の尊厳よりもエラいのか、そのプライドってヤツは」
「……っ」
ヤバい。勝てない。
間近に迫ってきた日吉の目には、はっきりと怒りの火が宿っていた。小学生のころから、俺はしょっちゅう日吉のことをあきれさせたり、イラつかせたりしてきたけれど、ここまで苛烈な怒りを向けられたのは初めてだ。
目をそらして唾をのむ。沈黙が降り積もるほどに、自分の忍耐がすり減っていくのがわかる。次に口を開いたら、自分はきっとまたなさけなく降伏してしまう——と確信にひとしい予感が生まれたけれど、先に口を開いたのは日吉のほうだった。
「……いや、今のは違うな」
「え?」
「その……さすがに言いすぎた。悪い、鳳」
さっきの苛烈さとは打って変わって、それは心から申し訳なさそうな声だった。
悪いのは俺なのに。日吉はなにも悪くないのに。
「……ごめん。日吉が謝ることなんてないよ。全部俺が、ごめん」
さっき「プライド」と言ったものが、一瞬にして崩れ去った。なんの非もない日吉に罪悪感を抱かせてしまうなら、それはプライドでもなんでもない。ただの俺の保身だ。
「……んだよ。話す気になったか」
「うん、話す……から、この体勢はやめてくれないか」
「……」
や、め、な、い——と、日吉が発した一音一音が吐息になり、俺の顔にかかる。日吉の表情は普段の彼らしい、俺にイジワルを言って満足がるときのそれに戻っていたから、俺はもう腹をくくるしかなくなった。
「で? 俺の写真を見ながら、どんな罰当たりな妄想してたって?」
「……えっと……。ひ、日吉といっしょに、おんなじ布団に入って……」
「ふうん」
「布団の中で、その、ギュッてしてもらって。頭とか……体とか、いっぱい撫でてくれて」
「それで?」
「あ、あと……おでこにキス、されたりとか……」
「……は」
俺の鼻先に鼻先を近づけたまま、日吉は眉をひそめた。
「お前、幼稚園児の空想じゃねーんだからさ……。そんなカワイイ内容だけで済むはずないだろ? いまさら純情ぶるなよ」
「……だって」
腹をくくったつもりでいたけれど、いざ口に出してみると強烈な羞恥に襲われた。日吉と視線を合わせているのがつらくなって、目を閉じる。と、伏せたまぶたの皮膚を日吉の指が強引に引っぱり、俺は無理やり開眼させられてしまった。
「逃げんな。続き話せ」
「っ……ひ、日吉に服、脱がされて……」
「で?」
「それで……いろんなところにキス、されて」
「いろんなところ、ってどこだよ。ボカさずにちゃんと言え」
「く、首とか、お腹、とか……」
「とか?」
「あと……ふとももとか胸とか、……くちびる、とか」
声に出して説明していると、どうしたってゆうべの夢が脳裏によみがえってしまう。思い出して、体が熱くなる。至近距離から俺を見つめている日吉の顔が、夢のなかで見たそれと重なる。息が上がる。
「……お前さ」
と、冷静な声が耳に落ちる。
「『脱がされて』とか『キスされて』とか……俺に“される”ことばっかり考えてるんだな。男のくせに」
「っ……」
図星のどまんなかを突かれて、声が出なくなる。いま鏡を見たら、俺の顔はきっと真っ赤になっているだろう。
日吉が指摘したとおり、俺の夢はいつも“される”ばかりだ。ベッドに入って目を閉じて、日吉の姿を思い浮かべると、あの瞳で見つめられたまま抱きしめられたい、とか、あの腕で強引に押さえつけられてみたい、とか、そんなことばかり考えてしまう。たしかに男らしくはないって、自分でも思う。
「……ごめん、俺、気持ち悪くて」
「いや、気持ち悪いとはひとことも言ってないだろ。……たとえ妄想の中だけでも、俺のほうがお前にどうこうされる側だったら、なんかシャクだし」
「そ、そっか……?」
「……つーか」
日吉はようやく「壁ドン」の体勢をやめ、きれいな正座になって腕を組んだ。
「勃ってるよな、お前」
日吉の視線が俺の体を滑り、下半身の一点で止まる。見られていることを意識した瞬間、それはいっそう熱を増してしまった。
「……ごめん……」
「だから、怒ってるわけじゃないのになんで謝るんだよ」
「だって」
俺はつぐないのための告白をしていたはずなのに、その最中にまた罪を重ねてしまうなんて、本当にどうしようもない。自嘲の念に溺れる俺の横で、日吉はまだ視線を固定させたままだった。
「……ちょうどいいな。お前、今ここで再現しろ。“きのうの夜”の」
「え……」
「生身がいちばん、なんだろ? 好きに使わせてやるからよ」
「……」
日吉はやっぱり本気で怒っているんだと、あらためて実感せざるをえなかった。高潔でありたいはずの彼にこんなことを言わせてしまっているのが申し訳なくて——そして単純に、欲求にそそのかされて——俺はうなずいた。
「……日吉、手、みせて」
「手?」
几帳面にそろえられた正座の膝の上に、日吉の両手が乗る。白くて薄い皮膚と、そこに透けた血管の青の色。昔より男のかたちになった骨がつくる起伏。それらを目に焼きつけて、自分で自分の体にふれる。「好きに使わせてやる」と言った日吉の言葉に甘えて、自分の手を彼の手だと思って、使う。
はぁっ、と湿った息がもれた。服の上からお腹を撫でただけで。
「お前、そんなに執着あったのかよ。俺の手なんかに」
「だって日吉の手、細くて硬くて綺麗だから……あの手で触られたら、きっと気持ちいいだろうなって思ってて」
「……いや、綺麗かどうかは気持ちよさとは関係ないんじゃないか?」
「関係あるよ……」
美しいほうが絶対、気持ちいいに決まってる。絵画や音楽だって、美しいものにふれたときは心だけじゃなく体まで、快くなれるのだ。
「っていうか、べつに綺麗とかじゃないと思うが……」
小声でそう言って、日吉は照れたように目をそらした。そんなことない、って反論する余裕もなく、俺はその綺麗な手を凝視したまま、快感の糸をたぐることに夢中だった。実物を見ているんだから当然だけど——動きも、力も、感触も、写真から想像するよりずっとリアルに感じられた。
部室のパソコンのキーボードを叩いているときの正確な指遣い。幼稚舎のころに見せてくれた、そろばんの珠を迷いなく弾いていく鮮やかな指さばき。告白に応えるために俺の手をとってくれた、緊張でこわばっていた手のぎこちなさ……日吉の指の動きを想って、服越しに胸をつかむ。シャツの裾から中に入って、腹筋の割れ目の溝をなぞる。書道の線を引くみたいに丁寧に。
「……はぁ……」
ムズムズするようなもどかしさが、腰の全体に広がっていく。背後の壁に背中を倒すと、日吉の部屋の匂いが鼻をかすめた。
「日吉、ごめん……」
「だから、いちいち理由もなく謝るんじゃねえ」
「……あるよ、理由。俺、日吉の綺麗な手で、汚いことばっかり考えてる……」
「汚い、って」
黒いズボンをはいた腿の上で、日吉の手がぎゅっと丸まって拳をつくる。俺自身がぎゅっと握られたような錯覚が起こって、感じてしまう。
「……じゃ、具体的に何がどう汚いのか言え。最後まで全部説明しろ、って言っただろ」
「その、……いま自分でしてるようなこと、ぜんぶ日吉の手でされてるって想像、して……それで」
「それで?」
「……写真の中の日吉と、目、合って。俺、こんなに綺麗でかっこいい人のこと、勝手に汚してるんだって……そしたら罪悪感ヤバいのに、意味わかんないくらい気持ちよくって」
シャツの中に入れた手の端が、十字架のネックレスにぶつかる。信心から身につけているわけではないけれど、今ばかりは神様に怒られている気分になった。
手の全体を使って、胸から下腹までを撫で下ろす。いつもしているのと同じ、自分が気持ちよくなれる触り方で。透明な痙攣の波が背骨を通り、腰につたって性器の根元を疼かせる。細身のズボンの生地に押さえつけられたそれが、ヒリヒリするような痛みに包まれていよいよ音を上げる。
「……ほ、ほんとにごめんね、日吉」
ベルトをほどいて、ファスナーを下ろす。ズボンの前をくつろげた瞬間、圧迫から解放された性器は下着の中でみっともなく跳ねた。
「鳳、もう謝んな。……イライラするから」
「っ……ご、ごめん……」
「……」
「あ、また謝っちゃった、ごめん……」
あきれはてるような日吉の視線が、濡れた下着の上に注がれる。見られているだけなのに、視線の道筋のとおりに細いものの先端で引っ掻かれているみたいだった。
「……で、そこも俺に触られる妄想してたってか」
「う、うん……」
「どうやって?」
「……最初はこうやって、下着の上から……」
日吉の手を見つめて、感触を想像しながら、下着越しに性器をつかむ。軽く握って前後に動かす。
「……ほんとの日吉はそんなことしないって、もちろんわかってるけど。布団の中で体、押さえられて……身動き取れない状態で、やめてって言っても何回も何回も、強引にいっぱい触られて」
「ふーん……。いいシュミしてんな」
「しゅ、シュミっていうか。日吉だから、っていうか……」
痛みも恥も屈辱も、もし相手が日吉だったらって考えるだけで、甘やかな夢に変わってしまう。どうかしている。きまじめで誠実な日吉がそんなアンフェアなことをするわけがないから、罪悪感はやっぱり無限に膨れていく。
夢のなかの彼の手が、シャツの中にもぐりこみ、俺の罪を告発するみたいにネックレスを引っぱる。金具が首に食い込んで痛くなるまでそうしてから、指先で乳首をくすぐる。キーボードを叩くのとも違う、そろばんの珠を弾くのとも違う、ただ俺に快感をくれるだけのための不埒な動きで。
「はぁ、っ……」
「……は。すげー顔」
「っ……ぁ、あ……」
心臓がドクドクと血を流す。速くなった息に混じって、聞かれたくなかった声がもれてしまう。羞恥と紙一重の興奮が血管を通って全身に回り、汗になって毛穴から噴き出していく。
「……よくできるよな、そんなこと。恥ずかしくないのかよ」
「だっ……だって、日吉がやれって言ったんじゃないか」
「やれって言われてもやらねーよ、普通は」
「俺だって」
俺だってこんなこと、好きでやってるわけじゃない——と言い返したくなったけれど、それにしては俺の体は興奮しすぎてしまっていて、まるで説得力がなかった。羞恥心はもう俺の心の許容量を超え、正常に機能しなくなってしまったらしかった。どんなに大量の水が注がれようと、二百ミリリットルのコップに溜まるのは二百ミリリットルだけ——そういうふうに。
「……やっぱりおかしいのかな、俺……」
「べつにおかしくはないと思うが。……ただ」
「た、ただ?」
「……だから余計に、腹立つ」
さっきより強い怒気をはらんだ声に、今度はもう謝罪の言葉も出せなかった。本当にどうしようもないけれど、こんな状況でも体は萎えず、むしろ興奮を増すばかりだった。布越しの刺激では物足りなくなって、とうとう下着を下ろしてしまうくらいには。
ズボンと下着を腿の途中まで下げて、右手で性器をつかむ。日吉はみっともなく腫れ上がった俺のそれを見て、
「やっぱ背丈がデカいと、そっちもデカくなるもんなんだな」
と、あまりにもストレートな感想を口にした。
「いっ、言わないでよ、気にしてるんだから……」
「は。ぜいたくな悩みだぞ、それ」
「……だって」
だって体は心を無視して、かってに大人になってしまう。知りたくなかった欲望まで、否応なく連れてくる。
もてあましたその欲望を鎮めるために、手を動かす。ただ上に下に往復するだけの単純な動きを少しずつ速くしながら、最短距離でゴールに向かう。いつもと同じ触り方だけど、いつもは無い日吉の視線が刺さって血の流れを激しくする。
「お前のこと、清廉潔白な優等生だと思ってるやつらに見せてやりてーよな。クラスの女子とかさ」
「……やだよ。こんなとこ、日吉以外の人には見られたくない」
「俺にだけは見られたくなかった、って言うほうが正しいんじゃないか? それ」
冷静かつ的確なツッコミで俺を刺した日吉は、でも冷静じゃない顔をしていた。なめらかな頬はりんごの色で、瞳には見たことのない濃い色が入っている。
その瞳が俺の手元をじっと見る。責めるみたいに見続ける。一秒ごとに快楽を増していく体が、痛いまでのもどかしさに悲鳴を上げる。
「……もうだめ、さわって、日吉」
怒りも確かにあった。でも怒りだけによって生み出された色じゃないってことが見てとれるくらいには、俺は日吉のことを知っていた。だから俺の片手は日吉のほうへ伸び、彼の手を奪って引き寄せていた。
「おい、何すんだ——」
俺のそれより細く、ひとまわりも小さい手。その手に自分の性器をつかませて、上からくるむように握る。ぐっと押さえつけて、そのまま上下に動かす。その手を操っているのはあくまでも俺自身の意思なのに、自分の手で触ったときとは比較にならないほどの快感が押し寄せた。
「はぁっ……」
「くそ。勝手に人の手、使いやがって」
日吉の手に力が入る。握り潰すようにキツく圧迫されて、内側の流れが強引にせき止められ、腰の奥から打ち付けてくる脈動だけ残る。
「ッ……だ、だって日吉、『好きに使わせてやる』って言った……!」
「こういう意味で言ったわけじゃねえ」
苦々しげな声が耳に届いたけれど、日吉の手は俺から離れていこうとはしなかった。それどころか圧迫の力を抜いて、俺の手の動きに身を預けてくれる。怒っているはずなのに。
——怒り以外にもなにかがある、けどそれが何なのかわからない。
混乱が生まれたけれど、下半身の熱によってかき消されてしまった。性器の先からは透明な液があふれ、自分と日吉の手を濡らしていた。グチャグチャと濁った水音が起こり、濡れた手が一往復するたびになさけない声がもれる。背筋がしびれる。体じゅうの神経がそこに集まって、日吉の手を限界まで感じ尽くそうと感覚を研ぎ澄ましているみたいだ。
「あ……っん……ヤバい、日吉……」
自分じゃない人の——好きな人の手で触られるのがこんなに気持ちいいなんて、昨日までの俺は知らなかった。これが“自作自演”でなければ、きっともっと幸せなんだろう。
「日吉、だめ、日吉っ……」
「……お前、ゆうべもそんな感じだったのか」
「へ……なっ、なにが?」
「だから……」
日吉はふいに正座を崩し、俺のほうに身を乗り出してきた。顔と顔が近づき、唇がふれそうになってドキッとする。そういえば俺たちはまだキスもしたことがないのに、なんだか順番を間違えてしまっている気がする。
「ひとりでヤッたときも、そうやって俺のこと呼んでたのかよ」
「あ……うっ、うん……」
「……ふうん」
「さ、最初はガマンしてて。家族に聞こえたらマズいって……。でも」
布団の中の暗闇で息を殺しながら、欲しがる気持ちが抑えられなくなって、ひよし、って声に出して呼んでしまった。そうしたら瞬時に全身が熱を持ち、味わったことのない陶酔感が体を包んで、あとはもう制御がきかなかった。
「で? お前の妄想の中の俺はなんて?」
「んっ……日吉も俺の名前、何回も呼んでくれて。それから最後に」
「最後?」
「……お、俺がイく瞬間に耳元で、好き、って言ってくれた……」
日吉は前髪の下で目を細め、へーえ、と冷たい声を出した。
「現実の俺は言わねーぞ、そんなこと」
「……わかってるよ」
体をめぐっていた衝動が性器の先へと集中して流れ始め、一気に射精感がこみあげる。下腹に力を入れてギリギリのところで押さえこみ、日吉の手から自分の手を離す。膨張して硬くなった性器の肉色と、白く美しい手の対比に心がえぐられる。
「……日吉、ありがと。もういいよ」
最後は自分で始末をつけようと、バッグの中に片手を入れる。ポケットティッシュを収めたケースを探し——指先がそれを発見したところで、予想外の感覚が身を襲った。
「えっ……ちょ、ちょっと日吉っ——」
さっきまでは俺が勝手に操っていた日吉の手。その手が今は自らの意思で動き、俺の性器をしごき始めていた。
「やだ、やめて、日吉」
「なんでだよ。『さわって』って言ったのはお前だろ」
「でもっ——」
快感で声がひっこむ。ふれるかふれないか程度の弱い手つきで、あやすように優しく撫でられる。五本の細い指の先が、根元から先端までをそろそろとくすぐっていく。かと思えば突然、強い力で握られて、速く激しく追い立てられる。息つくスキもなく刺激を送り込まれて、未知の感覚に意識が飛びかける。
「あぁっ……」
——ダメだ。いま出したら、日吉の手や服や部屋を汚してしまう。
でも冷静にティッシュを取り出したりする余裕は、もう、ない。自分でじわじわ快感を溜めていくのとは違う、有無を言わせぬ大きな流れに呑まれて流される。日吉の手が動くたび、その動きにあわせて体の中の水分がどっと揺り動かされる。性器から上ってくる振動に、胃袋まで波打つ気がする。
「だめ、やめてってば……ぁ」
フッ、と鼻息の音がして、目を上げたら日吉は笑っていた。根性の悪い天使みたいな笑顔だった。
「“やめてって言っても、強引に”されたかったんだろ? 喜べよ」
「……日吉、バカっ……」
俺は涙をこらえながら日吉をにらみつけることしかできなかった。さらさらの髪のてっぺんに、本当に天使みたいな光の輪っかが乗っていた。天使は俺の右の腿にまたがると、もはやいつ暴発してもおかしくない俺の熱を両手でつかんで責め始めた。
乱暴なほどの力に水際まで引っぱられ、なのに落ちる寸前でUターンさせられる。三歩進んで二歩下がるような、やっぱり根性の悪い攻撃が続き、それでも確実に限界へと追いやられていく。
「だっ……だめ、だめ、だめっ、俺もうイっちゃう、からっ……!」
いつもみたいに狙った場所に着地できない。どこに連れていかれるのかわからない。あらがう余地のない快感の激流が目前まで迫ってきて、俺はほとんど恐怖のために身構えた——その瞬間、
「鳳」
静かな声のあと、ちゅっ、と耳元で水音が鳴った。キスされたんだと気づく。
「……好きだ」
激流は一瞬で俺の体をさらった。日吉の声が耳から体に入り、心臓を殴るように動悸を起こした。体じゅうの産毛がいっせいに逆立つ。鳥肌・寒気・快感——それらすべてが同時に体の表面を滑っていく。
「……だ、だめ、日吉、やめて」
「……好きだ。大好き……」
「ひ、っ——」
ピンと張っていた糸が切れる。体に溜まっていた力が弾け、性器の中を駆け上がった熱が勢いよくほとばしる。けちな噴水のように出た白い液が、墨色の座布団に落ちる。
何を思う間もない混乱。気づいたらまぶたからは涙があふれ、自分の両腕は目の前の日吉の体を必死に抱きしめていた。日吉はドクドクと脈打っている俺の性器を握ったまま、残りを絞り出すように押し撫でながら、俺の耳元に唇をよせて俺の名前を呼んでいた。鳳、好きだ——って、現実の彼は言わないはずの言葉を、優しげな声で何度も。
「……だめ、もういい、もういいから!」
名前を呼ばれるたびに心と体が甘くしびれる。快楽はそのまま幸福になって胸を満たし、あたたかな火で俺を溶かす。だけど気持ちいいのもうれしいのも、威力が過ぎて手に負えなかった。このまま日吉に好き好きって言われ続けたら、俺の心や体では感じきれない。恍惚の余剰で俺は死ぬかもしれない。
「……なんだよ。お前の妄想を叶えてやってるんだろうが」
「それはうれしいけど、でも俺もう限界で——」
「うるさい。お前の妄想ごときの中の俺に負けてるの、なんかムカつくから下剋上させろ」
「そっ、そんな……」
好き、大好き、って、俺を殺しかねない言葉が容赦なく耳を襲い続ける。情念のこもった声が鼓膜を舐める。射精はもう終わったはずなのに、いくらでも快感がめぐる。感覚がバカになったみたいに。
「……好きだ。ずっと昔から……」
性器から離れた日吉の手が俺の腿を撫で、腰をすべり、脇腹から胸をたどって頬につく。俺の頬を持った日吉に顔を近づけられ、今度は唇にキスされるのかと思ったけれど、鼻と鼻が触れ合いかけたところで、日吉は逡巡らしき表情とともに静止した。
「……」
沈黙の中で日吉の吐息の音だけが聞こえる。言葉のかわりに、不可解なほど狂おしい炎を宿した瞳が俺を突き抜く。ダメだ、ほんとに死んじゃう——って思ったとたん、日吉の瞳の力にすべてを奪われるように、ガクンと体の力が抜けて意識まで落ちた。
***
校舎から校門へと続く一本道の両脇を、満開の桜が埋めている。
「ねえ日吉くん、きょうも行くの? そろばん教室」
「いや、きょうは休みだ」
「ほんとっ!?」
ぽかぽかの陽気と青空に恵まれた、晴れやかな春の日だった。新学年に上がり、新しいサイズに買い替えたばかりの制服を着た小学生の俺は、舞い落ちてくる花びらを頭に受けながら友人の手を取った。
「じゃ、きょうは遊べるね! そこの川でお花見して、それからボクんちに行こ?」
「……俺はそろばん教室が休みだって言っただけだ。おまえと遊ぶとは言ってない」
「え~、でも遊ばないとも言ってないよ。あっ、これから言うの?」
「……」
小学生の日吉は——小学生のくせに——呆れ顔でため息をついた。
「しかたないからつきあってやるけど、手は放せよ。ガキっぽいだろ」
学校の近くの川に沿った通りでは、大勢の人がお花見をしていた。幸運にも大きな桜の木の真下にある木製のベンチがひとつ空いていたので、俺たちはその上で肩を並べた。桜の傘の中に入ると、四方を花に囲まれた。ほんのりとピンク色に染まった白い花が視界を満たし、その向こうには昼下がりの陽をうけてキラキラと光る川の流れが見えていて、隣には仲良しの友達がいた。それはほとんど夢みたいな、楽園があるならこんなだろうと思わされる空間だった。
「日吉くん。桜、きれいだね」
「……ああ」
おろしたての茶色い半ズボンは、頭上から降ってくる花びらでいっぱいになった。楽園の景色はいくら見ても見飽きなかったけれど、時間が経つにつれ、俺の意識は自宅にも向き始めた。家では“日吉くん”が来てくれる日のためにとっておいたお花の形のクッキーとか、新しく買ってもらった図鑑とかが待っていて、それらを早く彼に見せたかったのだ。
三十分くらい桜を眺めたところで、俺はベンチから立ち上がった。けれど、
「俺、やっぱりおまえの家には行かない」
肩に乗った花びらを払いのけながら、日吉はそう言った。
「夕方までここにいる。……この桜、今しか見られないし」
「……あ、そっか……そうだよね、ボクんちで遊ぶより、こっちのほうがいいよね」
「え? いや、そういう意味じゃ——」
「ジャマしちゃったら悪いから、ボク、もう帰るね」
俺はいじけて日吉に背を向けた。だけど一歩目を踏み出すより先に、背後からブレザーを引っぱられた。振り返ると、日吉は困ったような顔で俺を見上げていた。
「いや、帰るなよ。それじゃ意味ないだろ」
「意味、って」
「……桜の木だったら、ウチの庭にも道場の裏にも生えてるんだよ。見ようと思えばいつでも見られる、けど……」
そこまで言って、日吉は口ごもった。
「……日吉くん、もしかして“ボクと”お花見がしたい、って言ってる?」
「いっ……言ってねえ!」
と叫んだ日吉の頬は桜の花よりずっと濃いピンク色だったから、その否定の叫びは肯定と同じことだった。俺は胸が熱くなり、笑顔を抑えられないままベンチに戻った。ベンチの座面に落ちた、五枚の花びらがつながったままの桜の花を拾い、日吉の髪にさして飾った。
「おい、やめろよ。女みたいじゃねーか」
「でも似合ってるよ?」
日が傾くほど、通りからは人の姿が減っていった。夕日に照らされて輝く明るい茶髪に、桜の花は本当によく似合った。やがて花冷えの冷たい風が吹き、その花を飛ばした。
「あっ……」
少しだけ惜しそうな顔をした日吉の視線の先で、白い花は夕焼け色の景色に吸い込まれて見えなくなった。
***
夢からさめると、不安そうな顔でこちらを覗き込んでいる日吉と目が合った。
「だっ、大丈夫か、お前」
「……あれ。俺、寝てた?」
「いや寝てたっつーか、気絶してたっつーか……」
まだ夢心地の頭の中に、少しずつ現実感が戻ってくる。目を下げると俺のズボンのファスナーは閉じられていて、ベルトも締まっていた。もしかしてあれも夢だったんだろうかと一瞬考えたけれど、墨色の座布団には精液を拭き取ったらしき痕跡が残っていた。
「……ごめん、これ汚しちゃって」
「別に、そんなことはどうでもいいが……」
そこで言葉を切って、日吉はふいに俺をにらみつけた。
「お前、今日のこと忘れるなよ」
「え……いや、言われなくても忘れられるわけないだろ、こんなの」
「絶対、だからな」
念を押すように——というより釘を刺すように、絶対、を強調して日吉は言った。日吉が何にそこまでこだわっているのかわからなくて、俺は困惑する。
「忘れないよ、絶対。けど、なんで?」
日吉は俺から目をそらし、なにか悔しがるように口を曲げた。
「……ここまですれば、今後はイヤでも毎回、俺のことを思い出すだろ。お前が、その……ひとりでヌこうとするときに」
「え」
「お前、俺のことが好きだって言ったじゃねーか。それなのに他のヤツとか……」
「日吉、ごめん」
と、俺はとりあえず謝ってみることしかできなかった。責められたことに対して、ではなく。
「俺、日吉が何言ってるのか分かんないんだけど」
また怒られるんだろうなと思いながら言った。けど次の瞬間、「だからっ」と叫んだ日吉の声は、怒る余裕もなさそうなくらい必死な響きだった。
「お前、きのうの夜に初めて俺の写真を使って、その罪悪感で挙動不審だったんだろ?」
「そ、そうだけど」
「つまり一昨日までは俺以外の誰かを使ってた、ってことじゃねーか。お前のほうが先に、俺のこと好きだって言ったクセに……」
「…………」
こんがらがっていた思考の糸は、そこでようやくほどけ始めた。
「……えっと……。俺、そういうときに日吉以外の人を想像したことなんて、一回もないけど」
「え」
「だって、いつも日吉のことしか思い浮かんでこなくて……。でも具体的に写真とか使っちゃったのは昨日が初めてだったから、越えちゃいけない一線を越えちゃった、って感じで罪悪感がすごくて」
「…………」
日吉は虚をつかれたように沈黙した。険しくゆがめられていた顔から、いらだちや焦りや憤りといったこわばりがポロポロとはがれ落ちていくのが見てとれた。
「……もしかして、日吉が怒ってた理由ってそれ? 『俺以外のヤツのことなんか考えるな』ってこと?」
日吉はまるで叱られるのを待つ子供みたいに深くうなだれた。長い前髪の影をかぶった口元から、蚊の鳴くような声がもれてくる。
「……わ、悪いかよ……」
光の輪を乗せた髪のすきまから、真っ赤に充血した耳や頬が覗いていた。やっぱり天使みたいだ、って感じて心臓がきゅんとなった。
——でも。
「悪いよ!」
「え」
「だって日吉が勝手に勘違いして被害妄想で怒って……俺、完っ全に怒られ損じゃん!」
「あ、いや……」
「俺は本気で申し訳ないと思って、ちゃんと誠意をもって詫びなきゃって。だからあんな恥ずかしい命令も全部聞いたのに、こんなのってひどい……。日吉のバカ!」
俺って誰かに対してこんなに遠慮なく怒れたんだ、って自分で驚くくらい、腹の底から激情が噴き上がってきた。俺がここまで言えば日吉だってさすがに素直に謝るだろうと思った。だけど、
「……お、お前が紛らわしい言い方するのが悪い!」
と大声で言い切って、日吉は弁解の言葉を並べ始めた。
「つーか、お前が勝手に異常なまでに罪悪感を持ちすぎてるだけだろ。男だったら誰でも普通にやってることでしかねぇのに、それをいちいち重罪みたいに言いやがってお前は古代の聖職者かなにかかよ」
「……ひどい、逆ギレだ……。日吉、俺のその罪悪感につけこんであれこれ命令してきたくせに」
「うるせえ。大体、たった一回俺の写真を使ったってだけのお前が極刑の罪人なら、もう回数も覚えてないような俺はどうなるんだ」
「えっ」
驚いて顔を上げる。日吉はいかにも失言をしたと言わんばかりに、右手でサッと自分の口を隠した。
「……もしかして、日吉も同じだった? その、俺の写真、とか……」
「……」
顎の先から目元までいっぱいに赤くなった日吉の顔が、ゆっくりと俺を向く。せっぱつまった様子で、眼には涙まで浮かんでいた。
「……お前、いま気持ち悪いって思ったか?」
「へ」
予想外の問いかけに面食らう。気持ち悪いなんて思うはずがないのに、日吉はなんでそんなことを聞くんだろう。
「思わないよ。っていうか、むしろうれしいし……」
もしもそれが他の誰かだったら、もちろん抵抗はあるだろう。でも好きな人が自分に甘い夢を見てくれるなら、それはたまらなく幸せなことに感じられた。
日吉は「同じだ」とつぶやいた。
「俺も同じだ、それ。なのにお前、俺に気持ち悪いと思われる、って前提で謝ってきやがって」
「……あ」
「なんでだよ。俺はたしかにお前みたいにわかりやすい感情表現とか、できねーけど。でも俺だってお前のことはちゃんと好き、だし……それくらい、お前ならわかってるはずだろ」
「……うん」
「それなのに『嫌われたくない』とか『軽蔑してくれて構わない』とか。気持ちを甘く見られてるみたいで、気分悪いじゃねーか」
限界まで赤くなり、たどたどしく言葉をつないだ天使はもう天使でなく、ただの俗人だった。俺はどっちだって好きだと思うだけだったけれど。
「……ごめん、日吉。俺、日吉の気持ちを疑ったりしたわけじゃなくて、ただ本当に勝手な罪悪感で死にそうになってて……。でも、たしかに日吉に対して失礼だったな。ごめん」
座ったまま頭を下げて、それから日吉を向き直る。日吉はスネた子供みたいに、わざとらしく目をそらした。
「——でもそれとこれとは別、っていうか。今日は俺、そんなんじゃ引き下がらないから」
「え」
「日吉の写真も見せて」
「えっ……」
日吉は俺に視線を戻し、細い目を大きく見開いた。
「だって俺だけ全部白状させられて、こんなの不公平じゃないか。だから日吉が使ってるって写真も見せて」
「いや、それこそ不公平だろ。お前は一枚だけだったのに……」
「……ふーん。日吉のは一枚だけじゃないんだ」
「……あっ」
日吉が俺の前でこんなふうに墓穴を掘るなんて、相当動揺している証拠だろう。このまま押せばいけそうだと、俺は身を乗り出して日吉に迫った。
「何枚あるの?」
「……知るかよ。いちいち覚えてねーよ!」
「いちいち覚えてられないくらいの枚数、ってこと?」
「……」
「じゃあ、特にお気に入りの一枚だけでいいから見せて。日吉、断れる立場じゃないだろ?」
さっき日吉に言われたセリフを、そのまんま投げ返す。日吉はしばらく無言を通していたけれど、やがて観念したようにズボンのポケットからスマホを取り出した。光を灯した画面が、俺の眼前に差し出される。
「……これだけど……」
そこに写っていたのは、学校の廊下で書類ファイルを抱えて立っている俺の姿だった。冬服をキチッと着込んで、わずかに笑っているだけの表情。構図も単純なバストアップで、とりたてて面白い写真とは思えない。卒業アルバムに個人写真として掲載されていても違和感がなさそうなくらい、それは質素で健全な一枚だった。
「日吉、こんなのがいいのか?」
「……なんだよ、人のシュミにケチ付けんのか」
「そういうわけじゃないけど……」
自分にはまるで魅力的にも扇情的にも見えないその写真が、日吉にとっては“シュミ”であるらしい。そう思うと、妙な興奮で体が熱くなった。
「……っていうかさ、これ日吉が撮った写真じゃないよな?」
あれは部活が休みだった日の放課後に、委員会の仕事だか先生の手伝いだかをしていたときのこと。職員室まで書類を運んでいる途中で、部活のメンバー数人に声をかけられた。その中に日吉もいて、短い雑談の最中にスマホのカメラを向けられた記憶もあるけれど、それは日吉のスマホではなかったはずだ(日吉がみんなの前で俺の写真なんか撮るわけがない)。
「はっきり覚えてるわけじゃないけど、たしか向日さんが……。日吉、わざわざ送ってもらったのか?」
「いや、勝手に押しつけられたんだよ。『日吉もコレ欲しいだろ?』とか言われて」
「ふうん……。で、日吉は『別に欲しくないです』とか言いながら結局ちゃっかり送ってもらってしっかり保存して、しかもそれを“お気に入り”にまでしてたんだ?」
「……」
俺なんかに図星をつかれてしまった日吉は、今までに見せたことのない表情になった。だから俺はもう「仕返し」なんて忘れて、ただ日吉の余裕のない顔を見たいだけになってしまう。
「……ね、これでもまだ不公平だよね? 日吉がいつもどういうことを考えてしてるのか、俺にも教えてよ」
「いや、それは……」
「男のくせに、って俺に言ったけど。じゃあ日吉はそういうことは考えないの?」
「……」
日吉のほうに近づいて、気まずげにうつむいている彼の髪を撫でる。ふと、この髪に桜を飾ったときの景色を思い出す。
「ねえ、日吉……」
——「仕返し」とかじゃなくて、俺も日吉のことが知りたいんだ。
心がそう言った。でも声にはならなかった。うつむいていた日吉が突然顔を上げて、俺のほうに迫ってきたから。
「え、何——」
問いかけを発する間もなく、視界がぐるんと上に回る。格子状に組まれた木の天井が見えたかと思うと、俺に覆い被さってきた日吉の半身によって隠される。日吉の両腕に押し倒された俺は背中から床に落ち、鼻先には畳の香りが漂った。
据わった目をした日吉が、俺の腰にまたがってくる。至近距離まで顔を近づけられる。心臓がドクンと大きく跳ねて、息が止まってしまう。
日吉は俺の頬を荒々しく引っつかむと、据わったままの目で俺の目を貫いた。
「——そんなに知りたいなら全部教えてやる。実戦で」
「じ、じっせん」
実践? それとも実戦? ——どちらにしても、すごく刺激的なことを言われた気がする。
「後悔したって、俺は責任なんか取らないからな。お前が知りたいって言ったんだから」
「……しないよ。俺、後悔なんて絶対——」
言い終わるより早く、唇にやわらかいものがくっつけられた。言葉は強気だったくせに、日吉のキスはぎこちなく、優しかった。
俺の唇をこわごわと押し、戻り、舌の先でわずかに湿らせて去っていく。さっきはもっと過激なことまで経験したのに、初めてのキスはひどく気恥ずかしくて、俺たちはただ黙って見つめ合うことしかできなくなった。
目と目で視線を吸い込み合って、もう一回。二回、三回……って、日吉は何度も唇を落としてきた。回数を数えていられなくなってきたころ、日吉は俺の上で息をつくと、ふいに申し訳なさそうに目を伏せた。
「……悪かった、あんなことさせて。いまさらだけど……」
「……もういいよ、そんなの」
両手で日吉の頭を引き寄せて、俺からもひとつキスをする。何度くりかえしても足りることなんて永遠になさそうな、甘い心地が全身を包む。
「俺もう怒ってないよ。最終的には、なんか……いい思い、させてもらっちゃったし」
日吉からあんなにたくさん「好き」って言ってもらえる機会なんて、この先もそうそうないだろう。今後しばらく、毎晩ベッドに入るたびに思い出してしまいそうだった。
「……でも日吉、なんで最後だけ触ってくれたんだ?」
「なんでって……」
と口ごもってから、日吉は続けた。
「が、我慢できなかったから、だろ」
「我慢?」
「だから、……お前のあんな姿を見てたら、欲情しないわけない……」
さっきまでの動揺の赤面とは違う、もっと熱っぽい色で頬を紅潮させながら日吉は言った。ためらいがちに発されたその一言だけで、俺の胸ははち切れそうなくらいいっぱいに満たされた。——と同時に、一抹の不安が頭をもたげてくる。
「あの、日吉。俺、後悔なんて絶対しないけど……でも適度に手加減はしてね?」
「手加減?」
「だって俺、日吉に本気でされたら、またさっきみたいに気絶しちゃいそうだから……」
祈るような気持ちで言った俺の上で、日吉は口の端を上げて憎らしいほど不敵に笑った。天使再来。
「手加減なんて誰がするかよ。俺は常に本気だ」
「いや、でも、俺、」
「いまさら抵抗しても無駄だぞ。おとなしく観念するんだな」
悪を成敗するヒーローみたいなセリフ。だけど、表情は完全に悪役のそれだ。そんな顔にすら俺は見とれてしまうから、日吉の“本気”に抗う手段なんてあるはずがないんだった。
***
夕方すぎに家に帰ると、庭の桃の木には新しい花が増えていた。早朝に見つけた初花の隣に、いくぶん小ぶりな花がひとつ。俺はそれを写真に撮って日吉に送った。数分後に、電話がかかってきた。
少しだけ緊張しながら、緑色の応答ボタンをタップする。
『なんだよ、あの写真』
「俺んちの庭の桃の花だよ。けさ開花したんだ」
『いや、そういう意味じゃなくてだな』
どこからか風が吹き、通話の音声にかすかなノイズを入れる。涼やかだけど冷たくはない、やわらかな春の風だった。
「結構いい写真だろ? 今日のお礼にと思ってさ」
『……別に、礼をされるような覚えはないが』
「そんなことないよ。俺、今日すっごく……」
『すっごく?』
「……すっごく幸せだったよ」
ひとりで見ていた夢よりも、ずっと。
[23.03.31]