[説明・注意書き]
・2年生の冬(部活引き継ぎ後)、校内で転んでケガした日吉くんが保健室に連れていかれる話です。
・名無しモブ男性教師がちょっとだけ出てきます。
※日鳳ですが日吉くんの受け身感が強めです(キスや愛撫の方向が 受→攻 のみ)。
昼のとばり
場所とタイミングが悪かった。階段を上っている最中にペンを落とし、拾って立ち上がったら立ちくらみで視界が暗転。平衡感覚を欠いた体はふらついて背後に倒れ、そのまま階段の斜面を数段ぶん滑り落ちた。あわてて俺を引き上げようとした鳳が荷物から手を離したので、階段には教科書やらノートやらの冊子類が散乱して一時惨状となった。昼休み中で人通りも多く、野次馬まで集まってきて散々だったが、三年の先輩たちに目撃されなかったことだけは不幸中の幸いだ。
「失礼します!」
折り目正しいあいさつとともに、鳳の手が保健室の戸を開け放つ。いつもの養護教諭の姿はなく、室内では若い男教師ひとりがコーヒーを飲んでいるだけだった。
「あれ、養護の先生は……」
「ああ、今ちょっと職員室に呼ばれててね。僕が留守番中なんだ」
「そうなんですか。じゃあ、ベッドだけお借りしてもよろしいでしょうか?」
「いや、待てよ鳳」
たしかに派手に転んでしまったが、ケガといえば膝下に軽い打撲をしたくらいだ。ベッドに寝かされるような重傷ではない。そう訴えたけれど、鳳は「だめだよ」と強引に俺の腕を引っぱった。
「日吉、寝不足だから転んだんだろ」
「え」
「目の下にクマ、できてるし。今日は朝練のときからずっと疲れてる感じだったし……。次の授業、音楽だよな? あとで俺が補講してあげるから、五限のあいだはここで休んでて」
寝不足は事実だし、朝から調子が振るわなかったのも事実だ。普段どおりにふるまっていたつもりだったが、こいつには見抜かれていたらしい。図星をさされて内心動揺する俺に、「あれ?」と脇から声がかかる。
「日吉くんだ。ケガでもしたの?」
「あ……どうも」
よく見ると、机でコーヒーを飲んでいたのは顔見知りの数学教師だった。受け持ちは一年生だから授業を受けたことはないが、報道委員の仕事で一度インタビューをしたことがある。
「ちょっと転んだだけです。こいつが無駄におおげさで……」
「おおげさじゃないって。ケガが悪化して部活に障ったりしてもマズいだろ」
「……今は誰も寝てないから、奥のベッド使っていいよ。養護の先生にも僕から話しておくね」
「はい、どうもありがとうございます!」
さわやかに返事をする鳳に手を引かれ、俺はカーテン付きのパーテーションで仕切られた空間に連れていかれた。ブレザーを脱いで、白いベッドに腰を下ろす。鳳は「応急処置用の道具とか借りてくるね」と言ってカーテンの向こうに消え、氷嚢やらクッションやらを抱えて戻ってきた。
シャッと音が鳴ってカーテンが閉まり、外からの光が遮断される。薄暗くなった空間の中で、鳳は上履きを脱いでベッドに上がってきた。
「日吉、そこに寝っ転がって。アイシングサポーター借りてきたから、つけてあげるよ」
「……いや、それくらい自分でやる。貸せ」
「でもこれ、自分でつけるの意外と難しいよ? ラクにしてていいからさ」
強引に押し切られ、俺は言われるまま枕に頭を落とした。横になると体が重たく沈み、呼吸と一緒に疲労が抜けていくようだった。
「日吉、やっぱり疲れてるだろ。……部長になってから、ちょっと頑張りすぎだよ」
「……だから、お前はおおげさなんだよ。夜ふかしして睡眠時間が縮んだだけだ」
「夜ふかしって、部活の仕事してたんだろ?」
鳳は俺の片足を持ち上げて自分の膝にのせ、ズボンのすそをくるくると巻き上げ始めた。部活の仕事——全体練習のスケジュールを組んだり部内試合のオーダーを考えたりで予定外に就寝が遅くなってしまったのは確かだが、それはひとえに俺の要領が悪いせいだ。頑張りすぎているわけではない。
「体調管理も実力のうち、だろ。単に俺の実力が足りてないだけだ」
「……つねに自分の実力に満足しないところは、本当に頼もしいけど。俺たちのことも、もっと頼ってくれていいんだぞ」
「……すでに十分頼ってるつもりだが」
鳳も樺地も俺とは違って、他人をサポートするのが本分のような人間だ。こちらから頼ろうとしなくても的確に手を貸してくれるから、それ以上のことを求めるのは気がひけた。それを本当に本分にさせたくはないのだ。
ズボンの裾から露出した脛に、湿ったガーゼの感触が這っていく。鳳は俺の脚を拭きながら、「でも」と小声でつぶやいた。
「俺は副部長、だから」
「だから?」
「副部長として、部長にそんな疲れた顔はさせたくない」
「……」
副部長。跡部さんの代には存在しなかったポジションだ。手本がない。だから全部、俺たち自身で一から築き上げなければならない。
「……誰にだって寝不足の日くらいあるだろ。お前だって去年、不眠気味だとか言ってた時期があったじゃねーか」
「それはそうだけど……。あ、ごめん日吉」
「ん?」
「これ、服の下からつけるのは無理があるな。ズボン脱がせちゃっていいか?」
「は」
いいとも悪いとも答えないうちに鳳の手がのびてきて、俺のベルトのバックルをつかむ。俺は反射的に身を起こして背後に飛びのいた。
「いやっ……いいわけねーだろ!」
「えっ」
鳳はきょとんと目を丸くして俺を見た。一瞬後、露骨に顔を赤くする。
「違っ……べつに不純な意味じゃなくて! 純粋に手当てのためでっ!」
そんなふうに言われると、まるで俺の反応が不純だったみたいだ。心外。うすぐらい空間の中には気まずい沈黙が流れ始め、俺はその空気に耐えかねて鳳の手からサポーターを奪い取った。
「や、やっぱり自分でやる。お前はもう戻れ」
「えっ……なんでだよ。俺がやるって」
「いや、『なんでだよ』はこっちのセリフだろ。たしかにお前は副部長だけど、だからってこんなことでまで世話を焼いてくれなくていいんだよ」
「……それは」
グイと強い力でサポーターを奪い返される。鳳にしては不可解なほど強硬な態度だった。
「……ごめん。さっきの、半分は嘘だったかも」
「え?」
脈絡が読めず混乱する俺の前で、鳳は奇妙にせつなげな息をついた。濡れた瞳が、おずおずと遠慮がちに俺を向く。
「副部長として純粋に心配なのもホントだけど……。手当てにかこつけて日吉の脚を触りたい、っていう不純な動機もあった……かも」
「へっ……」
打撲の痛みとは別物の鳥肌が、爪先から腿へ走る。触りたいと言われただけで、実際に触られたわけではないのに。
「……ごめん」
「や、べつに……」
「……」
「……」
さっきの百倍は気まずい沈黙。鳳は恥じ入るように身を縮めたが、サポーターはその手にしっかりと確保したままだった。手当てはあくまでも自分がやるんだというように。
「……もういいから、さっさと処置しろよ。そろそろ予鈴の時間だろ」
「う、うん。……えっと、ズボン脱いでもらっていいかな」
ベッドのすみに畳んで置かれたタオルケットが目に入る。これで下半身を覆ってその中でズボンを脱ごうかとも思ったが、冷静に考えるといまさらそんなことを気にするのもヘンだ。毎日毎日同じ部室で着替えているし、合宿や旅行で一緒に風呂に入った経験だって一度や二度のことじゃない。
ベルトをほどいてズボンを脱ぎ、両脚を前に投げ出す。右膝の下に赤黒いアザが広がっていた。
「うわっ、痛そー」
突然正気に戻ったような調子で言って、鳳はアザのまわりをガーゼで拭き始めた。行為そのものはさっきと同じはずだけど、あんなことを言われた直後だ。同じように感じることはできなかった。
「日吉、脚きれい」
「……その感想、手当てになんか関係あんのか」
「……ないけど……」
長い指の先が時々、皮膚をかすめる。氷嚢を固定するためのサポーターが巻きつけられ、ひんやりとした冷たさが膝を包んだ。
「これで大丈夫かな。キツすぎたりしない?」
「いや、平気だ」
「そっか、よかった」
手当ては終わったはずなのに、鳳の手は脚から離れていかなかった。サポーターの上を撫でるように動いて、そのまま腿へ滑る。しっとりと汗をかいた手のひらのシワの、凹凸のひとつひとつまでを肌が感じ取ってしまう。
「おい、もう授業……」
「ん、……もうちょっとだけ」
膝が冷たいせいで、腿に置かれた手の熱が際立った。温かい手が何度もしつこく腿を撫で回り、少しずつ上に迫ってくる。ひと撫でされるたびに体の中の血の巡りが速くなる。腿から腹を通って喉元まで熱が上がり、その熱を逃がすように深い息がひとつ、出ていった。
「はぁ、っ……」
「……日吉、かわいい」
体が熱い。くすぐったい。左右の腿をいっぺんに撫でられて、腹筋や爪先に不自然な力が入る。弱い声がもれてしまう。
「っ、ぁ……」
「かわいい……。日吉のそんな顔、はじめて見た」
「……るさい。見なくていい」
「なんで? もっと見たい」
皮膚に密着した手が腿の内側に潜り、指先が下着の端にかかる。奥へ進む手と一緒に顔が近づいてきて、そのまま唇を奪われる。一瞬で離れていったけれど、唇を押した温度と湿度の余韻はなかなか消えなかった。
「日吉、汗すごいな」
「……お前もだろ」
手を滑らせる汗は、もはやどちらが出したものなのかわからない。自分の腿に目を落とすと、ひどく猥褻に見える光景が視界に飛び込んできた。むきだしにされた脚の付け根を持つデカい手と、その上で下着の生地を中途半端に押し上げる隆起。鳳の手が動いて、指の節が下着越しに性器に食い込む。
「……」
目が合った。瞬間、頭上のスピーカーから予鈴が流れてきた。それでも鳳は離れていかず、未練がましく熱っぽい目は睥睨めいたまなざしで俺の目を見続けた。
「……授業行け。サボる気か?」
本気のデコピンで額を打ってやる。「痛っ!」と叫んでから、鳳は我に返ったように表情をゆるめた。目や眉間に込められていた力が消え、間抜けな顔になる。
「あ……ごっ、ごめん! 俺、つい……」
「つい?」
「つい……なんだろう。自分でもよくわかんないけど……なんか、やめられなくて」
鳳はようやく俺から手を離し、説教を待つ子供のように正座になってうなだれた。
「……変態」
「へっ……」
派手に裏返った声が、語尾にかけて弱々しく細って消えていく。鳳は俺が今までに見たことのない顔になって唇を噛んだ。俺が——というか、こいつのこんな情けない顔は俺以外の誰だって見たことがないだろう。
「……ほんとにごめん。俺もう行くから……このクッションに足のせて、ゆっくり休んでて。俺、六限の前に起こしにくるね」
「べつに来なくていい。スマホのアラームかけて自分で起きる」
「……じゃあ起こすんじゃなくて、寝起きの日吉を見るために来る」
「なおさら来なくていいだろ、それ」
へへっと自嘲ぎみに笑って、鳳はベッドから下りた。寝転がった俺の体にタオルケットをかけ、腰を折って顔を寄せてくる。
「放課後になったら——他の部員の前では、強くて頼れる部長でいてね。そうじゃないところは俺が頑張って支えるから」
「……それが副部長の役割だってか?」
「ん、うーん……どうだろう。日吉の弱い顔は俺だけがひとりじめにしたい、っていう公私混同も半分くらい入ってるかも」
「職権濫用、だな」
そんなふうでいいのだろうかとも思うが、やってみなければ結果はわからない。もしもそれでうまくいくなら、俺たちにとってはそれが正解なのかもしれない。
前髪の毛束が持ち上げられ、露出した額のまんなかに唇が落とされる。少なくとも、その感触は俺の身を軽くするものだった。
「おやすみ」
「……ん」
カーテンの向こうへ消えていった鳳の足音が遠ざかる。ズボンのポケットから取り出したスマホにアラームをセットしたところで、ふいに天井の影が動いた。カーテンが揺れたのだった。
「……日吉くん、ちょっといいかな?」
——そういえば。
カーテンの向こうから名前を呼ばれて、血の気がひいていく。心臓が縮む。どうにかこうにか声を絞り出して「はい」と答えたら、みっともなく震えた返事になった。
「なんというか、あんまり狭量なことは言いたくないんだけど……。居合わせてしまった以上、僕にも教員としての立場があるからさ。きみは真面目な子だから余計な心配はしないけど、まぁ学校の中では控えるようにってことで」
「……もっ、申し訳ありません!」
背中にイヤな汗がわく。いっそ問答無用で叱り飛ばしてくれればいいのに、気をつかわれているのがかえっていたたまれなかった。
「あ、べつに全部聞いてたわけではないから安心して」
「……本当に、すみませんでした……」
なんで鳳が勝手に始めたことを俺が謝らなきゃいけないんだ——という憤りもあるが、しかし共犯には違いない。心の中で土下座した俺の謝罪のあと、「それじゃ、ゆっくり休んでいってね」と優しい言葉が返り、俺は羞恥に焼かれながらタオルケットの中に潜り込むことしかできなかった。
心臓が強く打っている。深呼吸で精神を整えながら、スマホのメッセージアプリを立ち上げる。明日以降三日間半径五十センチ以内接近禁止、とだけ送信して画面を消す。一メートルと言ってやりたいところだが、部活中に近づく必要を考えると現実的ではない。
鳳はあわてるだろうか、しょげるだろうか。それとも怒るのか。メッセージを読んだ鳳の反応を想像しているうちに、重たい眠気の波が俺の身をさらっていく。
誤ってテニス部全員が参加するグループにメッセージを送信してしまっていたことに気づいたのは、たっぷり五十分間の夢からさめた後だった。
[23.05.25]