583+

[説明・注意書き]
・鳳くんのプロフィールの〈好きな本:長編少女漫画〉から妄想した話です。
・2年生の12月設定。

・切原くんがちょっとだけ出てきます(電話の音声のみ)。

ラストシーン


 三か月間見続けていたテレビドラマの最終回を見損ねた。

 いや、べつにたいして楽しみにしていたわけではない。見始めたきっかけだって、日吉の好きそうな話だから見ろ見ろ絶対見ろ、とメッセージアプリでしきりに訴えてくる切原からの連絡がしつこく、これはもう適当に見て適当に話を合わせたほうがラクだなと判断して渋々、だったし(しつこいからとブロックでもすれば今度は直接電話をかけてきてわめくので余計にうっとうしい。過去に経験済み)。

 内容は可もなく不可もなく、だった。しかし第一話を見たあと、二話三話四話と視聴を重ねるごとに後にひけなくなり、後半はもう意地だ。途中で降りたらそれまでにあのドラマのために費やした時間が全部無駄になる、ような気がする。ここまできたら完走しなければ負けだという妙な義務感に駆られて、毎週かかさず放送時間にはテレビの前で宿題をした。このヒロイン役の女優って若が好きそうなタイプだよなぁ、とか兄に冷やかされてウザかったが見続けた。のに、最終回にあたる第十二話だけ見逃した。

 ミステリーものだったのに、事件の真相もわからない。犯人は誰で、トリックは何だったのか。結局あの主人公とヒロインはくっついたのか。どれもこれも自分の頭の中で想像するしかない。

 なくしたままの結末を好きなようにつくりあげて、勝手に満足する。そんな決着のつけ方も、意外と悪くはなかったが。

   ***   

「あのさ、日吉。俺、帰る前に本屋に寄りたいんだけど、……いっ、いいかな?」
「はぁ?」

 鳳が不自然なほど遠慮がちに尋ねてくるので、俺はつい威嚇めいた調子で聞き返してしまった。十二月の寒空の下、夕焼け色に染まった校門のそばで、デカい体が萎縮するように縮こまる。

「いや、普通に考えてダメな理由がないだろ。なんでそんなにオドオドしてるんだよ」
「……」

 鳳はなぜか気まずそうに顔をそむけ、無言のまま歩き始めた。やがていつもの下校ルートを外れ、線路沿いの道に入る。百円ショップを通りすぎて本屋の前に着くと、鳳は店外にある雑誌棚の脇で足を止めた。

「……あの。日吉はここで待ってて」
「は? なんでだよ。寒いんだから俺も中に入らせろ」
「いや、そのっ……俺、すぐ買ってすぐ戻ってくるから! 三分、いや二分だけ我慢しててくれないか?」
「……お前、どんな本を買おうとしてるんだ? いくら体格が大人並みだからって、この制服を着てたら絶対に十八歳以上には見えないぞ」

 むろん万が一にもこいつがそんなことを考えるわけはないのだが。百パーセント冗談でしかない俺の言葉に、鳳はしかし「そっ、そんなんじゃないよ!」と本気で顔を赤くした。

「……わかった。日吉もついてきていいから……」

 観念するようにつぶやいた鳳の一歩後ろについて、本屋に入る。鳳は迷いのない足取りで店内を進み、全体的にピンクっぽい一角にたどりついた。ピンク、といってももちろん十八禁コーナーではなく、少女漫画の棚だった。

 新刊台の中央に据えられた大型のPOPから、〈最終巻本日発売!〉と手書きされた派手な文字が目に飛び込んでくる。制服姿の少年少女のイラストが描かれた、やはり全体的にピンクっぽい表紙の本だ。

 平積みにされたその本の山に鳳の手が伸び、頂上の一冊を持ち上げる。

「レジ行ってくる、から」

 こういう漫画本の判型は、たしかB6サイズだったか。しかし鳳の手の中に収まったピンク色のその本は、まるで文庫本みたいに小さく見えた。

   ***   

 気分が悪い。俺は内実を知りもせず他人の趣味をバカにするような人間だと思われているんだろうか?

「あの本を買うところ、そんなに俺に見られたくなかったのかよ」
「……」
「……だったら一人で買いに行けばよかっただけの話じゃねーか。なにもわざわざ俺と一緒に帰る日じゃなくて」
「それは……だって最終巻、すっごい楽しみにしてたから。出たらすぐ読みたかったし、俺が読み終わったらすぐ貸すねって樺地にも約束しちゃったし」
「……ふうん」

 嫌味たらしく続いてしまいそうだった文句を、ティーカップの中の紅茶とともに飲み下す。顔を上げ、数か月ぶりに足を踏み入れた鳳の部屋の中を眺めると、本棚の端っこに目を引っぱられた。

 楽譜や参考書や文学全集といったカタい本が並ぶ棚のすみに、本屋で見たのと同じ、ポップなピンク色に満ちた区画ができている。やはり少女漫画だろう単行本が収められたそのエリアの大部分を占めているのが、さっき鳳が最終巻を買っていたタイトルだった。棚には二十九巻まで並んでいるから、三十巻で完結ということだろうか。なかなかの長編だ。

 ある日突然、「みんなから恋愛相談されたときにちゃんと受け答えられるように少女漫画を読んで耐性をつける!」——とか言いだした鳳が、修行のつもりで読み始めた作品にうっかりハマってしまった、という話は前に聞いていた。発端の発想は正直理解不能だが(漫画を読んだからって耐性がつくようなモンなのか?)、その趣味自体にケチをつけたりしたことは一度もない。男のクセにそんなもの読んで、とか断じて言っていないし思ってもいない。部活の帰りに“修行”の一環だとかで鳳と樺地が感想を語り合っているあいだ、俺は最初の一秒から最後の一秒まで完全に無言だが、それは単純に話に入れないからであって呆れているわけではない。

 しかし鳳はたぶん、ずっと俺にバカにされていると思っていたんだろう。そうでなければ、本を買う場面を見られるだけのことにあそこまで動揺はしないはずだ。

「……あのさ。あれ、俺も読んでいいか」
「え……はっ!?」

 人間性とか倫理観とかを疑われたみたいで心外だが、まあ普段から無愛想だったり皮肉っぽかったりする俺の自業自得な部分も少しはあるだろう。と殊勝に反省して自ら歩み寄ってみた俺の正面で、鳳は鳩が豆鉄砲を食ったような顔になった。ガラス製のローテーブルの上で、受け皿に着地したティーカップがガチャンと耳障りな音をたてる。

「いや、そこまで驚かなくてもいいだろ」
「え、だって……絶対絶っっ対、百パーセント日吉のシュミじゃないよ!? 幽霊もUMAも出てこないし、人が死んだり神隠しにあったりもしないし!」
「べつにそんな要素は求めてねーよ。表紙見りゃ分かるし」
「……ひょ、表紙……」

 表紙、に何か思うところでもあるのか、鳳はそこで不自然に言葉を切った。

「……やっぱり見ちゃったよね? 表紙の絵」
「え。……見たっつーか、あんだけ大量に平積みにされてたらイヤでも目に入るだろ。なんかファンシーな絵が描いてあったな、ってことくらいしか覚えてないが」
「あ、そうなんだ? ……よかった」
「よかったって、何がだよ」
「……」

 鳳は痛いところをつかれたと言わんばかりに唇を結び、少し黙ってから強引に話の進路を切り替えた。

「とっ、とにかく日吉にはおすすめしないよ。日吉は女きょうだいもいないし、こういうの読んだことないだろ?」
「それはそうだが……」

 女きょうだいもいなければ女友達も限りなく少ないので、たしかに俺にとっては未知の世界だ。だけど、未知の世界を覗いてみたいと思うのだって自然なことだろう。

「三十巻も続いてるってことは、それだけ面白いってことだろ。慣れてない男が読んでもそれなりに楽しめるんじゃないのか?」
「そ、それはもちろん……男とか女とか関係なく楽しめる作品だって、俺は思ってるけど」
「だったら俺が読んでもいいだろ。一巻、借りるぞ」
「えっ」

 立ち上がって本棚に移動し、ピンクエリア前の床に座り込む。巻数順に並べられた単行本の左端から、背表紙に「①」の丸数字がついた巻を取り出す。そのまま読み始め——ようとしたところで、いつのまにか背後に迫ってきていた鳳に手首をつかまれた。

「……この本はダメっ! ほかの作品だったらいくらでも貸すから!」
「は?」

 鳳は額にびっしりと汗をかき、頬を赤くして、切羽詰まったような顔で俺を見下ろしていた。

「なんだよ、この本になんかあんのか? 実はすっげーいかがわしい内容、だったりするとか?」
「ちっ、違うよ! 三十巻かけて最終話のラストでやっと初めてキスするくらい純情な話なんだからな!」
「……」

 普段クラスメイトから恋愛相談を受けるだけでしどろもどろになっている鳳の口から、キス、とかいう単語が飛び出したので俺は一瞬ひるんだ。ひるんだスキに本を奪われそうになり、あわてて鳳の手を振り払う。体ごと後退しても鳳はめげずに食らいついてきて、ほとんど襲いかかられる格好になった俺は反射的に寝技を繰り出していた。

「わっ……」

 本を持ったまま右腕を鳳の首に回し、左腕で鳳の片腕をロックして自分の腰に引き寄せる。そのまま上体で上体にのしかかって押さえ込めば、相手は俺の半身と腿に挟まれて身動きが取れなくなる。要するに袈裟固めの要領だ。——しかし。

「……ひ、日吉。あの、この体勢はちょっと……」
「……」

 ここは道場じゃないし、鳳は立ち合いの相手でもない。「技をかけた」というより「押し倒した」空気になってしまい、俺の頭には時間差で羞恥が来た。袈裟固めならここからさらに顔を近づけるが、さすがにそこまではできなかった。

「いや、その……だってお前、こうでもしないとまた本を奪おうとするだろ」
「……それは」
「なんでそんなにかたくななんだよ。俺に対して失礼だぞ、それ」
「え、失礼? って?」

 俺の腿に頭を押しつけられたまま、鳳は虚をつかれたように目をまるくした。

「俺に内容を知られたらバカにされるとか軽蔑されるとか思ってるんだろ、どうせ。俺はそんなに了見の狭い人間ではないつもりなんだが」
「えっ……。俺、そんなこと全然思ってないけど」
「は?」

 今度は俺が虚をつかれる番だった。バカにされそうで恥ずかしいから、という理由でないのなら、いったい他に何があるというのか。混乱する俺の真下で、鳳は「だって」と二の句をついだ。

「日吉はそんなことで他人を軽蔑するようなヤツじゃないだろ。それくらい知ってるよ、俺は」
「……いや、だったらなんでそんなに必死で拒むんだ?」
「……」

 鳳はなおもかたくなに口を閉ざした。俺の想像は的外れだったみたいだが、いずれにせよ秘密があることには間違いがなさそうで、俺はそれを暴いてやりたいと思ってしまう。

「……あのさ。俺だって別に、ただ野次馬精神とか興味本位で読みたいって言ってるわけじゃねーんだけど」
「え」
「だから——

 鳳の動きを封じる両腕の力を強め、前のめりになって顔を近づける。でも、これはべつに技のためじゃなくて。

——お前の好きなもののことが。……お前のことが、もっと知りたいって言ってんだよ」

 あくまでも淡々と言うつもりだったのに、言葉はぎこちなく泳いで声はひっくり返った。いつもの自分なら絶対に出さない声色が耳に入って、頭を沸騰させる。こっぱずかしいセリフを吐いてしまった俺の下で、鳳はしばらく固まったあと、まばたきをくりかえしながら派手に赤面した。

「……そ、それ」
「あ?」
「今のセリフ、三好くんも同じこと言ってた……」
「は? 誰だよ、三好って」

 唐突に耳慣れない名前を聞かされて、頭のほてりがやや冷める。鳳はいかにも夢見心地の表情で「その漫画の……」と漏らしたあと、失言に気づいたとばかりにハッと目を張った。

「いや、違っ……なんでもない!」
「なんでもないヤツの顔じゃないだろ、それ」

 例の漫画本を開くため、鳳の首から右腕を離す。そうすると袈裟固めの拘束力は半減したが、鳳は芯を抜かれたような顔をして、俺の片腕の中に捕らえられたままだった。

 表紙と同じイラストがモノクロで印刷された中表紙をめくると、登場人物紹介のページが現れる。主人公らしき制服姿の女子と、その相手役だろう、同じく制服姿の男子のイラスト。〈三好 誠/高1。曲がったことを嫌うきまじめな性格で、他人には基本的に塩対応。学年随一のイケメンで根は優しいが表情も態度も険しいため、女子からはモテるのと同じくらい恐れられている〉——というのが、“彼”のプロフィールらしかった。少女漫画に出てくる男というと柔和なヤサ男のイメージだったが(それこそ鳳自身のような)、コイツはけっこうな悪人ヅラだ。とくに目つきが悪く、獲物を狙うカラスみたいな目で読者をにらみつけている。

 第一話にざっと目を通してみる。高校に入学した主人公が通学バスの中で起こったハプニングから“三好くん”と知り合い、最初はやはりその人相の悪さにビビるもののやがて彼の内面の優しさを知って惹かれていく——という導入の筋書き以外も、全体的にオーソドックスな雰囲気の漫画だった。少女漫画をまるで知らない俺ですら、なんとなくのイメージでオーソドックスだと判断できるくらいだ。健全も健全な作風で、たぶん学校の図書館にリクエストしたって蔵書として置いてもらえるだろう。というか俺が知らないだけで、もしかしたらすでに置かれているのかもしれない。

 ——それくらい無害そうな本なのに、なんで鳳はあそこまで。

「……だから日吉には見られたくなかったのに……」
「は? 何がどう『だから』なんだ?」
「……日吉、絶対わかってて聞いてるだろ」

 恨みがましげな目で俺をにらみつけて、鳳はため息をついた。ますますわけがわからない。

「いや、なんのことだよ。なんにも分かってねーよ」
「えぇ……ほんとに?」
「ホントだって」
「ほ、ほんとに? ……そんなに似てるのに?」
「は?」
「だ、だからその……」

 口ごもりながら目を泳がせた鳳の視線が、やがて俺の手元に着地する。いま開いているページには、例の悪相男の横顔がアップで描かれていた。

「そのキャラクターが日吉に似てる、から……」
「いや似てねーだろっ!」

 思わず秒速でツッコんでしまった。大声を出した俺の下で、鳳も負けじとばかり「似てるよ!」と声を張り上げる。

「まず見た目がそっくりだし」
「……」

 紙面に目を落とす。似ていると言われたうえで改めて見てみると、たしかに髪型と、カラーページで確認できる髪色は近いような気がしなくもなかった。——が。

「俺はこんな悪人顔じゃない」
「あ、悪人、ってわけではないけど……。めちゃくちゃかっこいいのにちょっと無愛想、っていうか仏頂面っていうか。日吉、もっと鏡とか見たほうがいいよ?」
「……クソ失礼だな、お前」

 無愛想な自覚は一応あるが、だからって俺はここまでイヤミっぽい目はしていない。……と思う。多分。

「それに中身も……。ちょっと偏屈で素直じゃないけど、みんなへの気遣いはあってさりげなく優しくて。根暗っぽく見えても実際はとことん前向きで、向上心があって心も体も強いのに時々すっごくかわいくて!」
「……それが俺に似てる、のか?」
「似てるだろ。しかも名前まで近いんだよ? みよし、って!」

 鳳は満足げな顔で熱弁を終えた。「偏屈」とか「根暗」とか微妙に引っかかる部分もあるが——つまるところ鳳の中では、少女漫画のヒーローと俺とが同一視されている、ということらしい。

「……お前、間違いなく正気じゃないな」
「う、うーん……。正直、自分でもちょっと思ったよ。“恋は盲目”ってヤツかな、って」
「盲目っつーか、見えるはずのないモノが見えてるだろ。見えないよりやべーよ」
「いや、そこまで言われるほどではないと思うけど……」

 本のページをさらに進めてみる。“三好”は「塩対応」という設定のはずだが、そこはさすがに少女漫画。〈俺のこと、ひとりじめにさせてやる〉だの〈もう逃がしてやれねーぞ〉だの、あまったるいセリフのオンパレードだ。お化け屋敷で怖がる主人公をわざと迷子にさせた彼がお化けのふりをして突然背後から主人公を抱きしめる、なんていうシーンを読んだときには、俺は指先で頭皮を突き破って脳ミソを直接かきむしりたくなってしまった。

「……日吉、やっぱりヒいてる?」

 まだ袈裟固めに固められたままでいる鳳が、不安げな視線を投げてくる。イエスともノーとも答えがたい問いだった。

「……べつに内容自体にヒいたりはしてない。し、これがもしただの友達の趣味だったら、こういうもんなのか、って新鮮に感じるだけだったと思う。……けど」

 ——「ただの友達」ではないのだ、もう。少女漫画だろうと他のどんなジャンルだろうと、鳳がその登場人物に俺のイメージを重ねながら恋物語を愛読している、という事実を知ってしまったら、「こういうもんなのか」で片付けるなんて到底無理な話だった。

「……お前、要するにさ。ここに描かれてるようなことがしてみたい、ってことだろ? 俺と」
「えっ……」
「いや、『されてみたい』のほうが正しいのか? ……どっちにしても。主人公に自分を重ねて、相手の男に俺を重ねて読んでた、ってハナシだよな」

 そういう読み方をしていたから、さっき俺が作中に出てくるのと同じ(らしい)セリフを言ったときにもあんな恍惚めいた表情を浮かべたんだろう。

 それは明明白白の事実であるように思われた。けれども、鳳は往生際の悪い反応をみせた。

「や、べつにそんな、主人公に感情移入とか……してないよ。女の子だったらそういう読み方になるのかもしれないけど、俺は男だし」
「お前、さっき『男とか女とか関係なく楽しめる作品』だって言ったじゃねーか」
「そ、それはそういう意味じゃなくて……」

 鳳が歯切れの悪い言葉で否認すればするほど、それは事実としての強度を増していくみたいだ。こいつがフィクションの中に俺の代理を見いだして疑似恋愛的な空想に興じていたんだと思うと、胸の奥にむずがゆい嬉しさが芽吹いてしまうのも否めなかったけど。

「……けど、なんかムカつくな」
「え……」
「それって結局、俺であって俺ではないだろ。俺自身の存在はそっちのけで、まがいもののほうに夢を見られてるの、なんか面白くねえ」
「……えっと」

 鳳は似ていると言い張るが、俺はあの漫画みたいにあまったるいセリフは吐けないし、ロマンチックな言動もできない。本物の俺では叶わない夢をファンタジーで補填されているみたいで——つまり本物の俺では足りないと言われているみたいで、どうしたって面白くなかった。

「日吉、もしかして漫画にヤキモチやいてる?」
「そっ……そんなんじゃねーよ!」
「えー……ヤバい。日吉、こどもっぽくてかわいいな」
「……うるさい」

 漫画本を床に置いて、右腕をふたたび鳳の首に回す。全力で体を押さえ込んでも、鳳はまだほほえましげな顔をしていた。ので俺はまたムカついた。

「お前、あの最終巻は読むな」
「へっ」
「本は俺が買い取る。で、樺地に譲る」
「いやいやいや、なんでだよ!? 俺ずっと楽しみにしてたのに!」
「俺の代わり、なんだろ? 現実の俺がいれば、それで十分じゃねーのか」
「……そ、それはそうだけど。いや、でも漫画は漫画で別腹っていうか」

 「可もなく不可もなく」な1クールドラマの最終回をうっかり見逃す程度のこととは話が違う。三十巻分も愛読してきた本の最終巻を取り上げるなんて横暴だと、自分でも理解しているが。

 ——三十巻かけて最終話のラストでやっと初めてキスするくらい純情な。

 さっき鳳の発した言葉が、頭の中でリフレインしていた。現実の俺で知るより先に漫画なんかで知ってほしくないって、それは本当にこどもっぽい意地だった。

「……じゃあ、どっちか選べよ」
「え」

 首に回していた手で鳳の顎をつかんで、ぐっと顔を近づける。白い額に俺の前髪が落ち、間近に迫った鳳の頬が、耳が、じわりと赤く染まっていく。その熱は俺にまで伝わり、湿った息になって出ていった。

「漫画で読むのと、現実の俺にされるのと、どっちがいいんだ?」
「……俺、」

 鳳は短くつぶやいた。それ以上言葉は続かなかったけれど、腕の中に押さえ込んだ体からは力が抜け、表情までがうっとりと弛緩した。俺にすべてを委ねようとしていることが一目瞭然の反応だった。

 ドクンと心臓が跳ねる。口の中に際限なく唾液がわいてくる。脱力しきったように見えたけれど、よく見ると鳳の睫毛は震えていた。二人きりの部屋の中で、緊張も興奮もうれしさも全部、同じものを分け合っているんだって肌で感じられた。

 最後の確認のつもりで頬を撫でると、呼応するように鳳のまぶたが閉じていく。一線が——いちど越えたら後戻りできない一線がそこにあることを意識しながら唇を近づけた、その瞬間。

 スマホの電話着信を告げる電子音が、俺たちのあいだの空気を割った。

「……」

 デフォルト設定から変えていないメロディが、耳障りなほど軽快に鳴り響く。少し待ってみても止まる様子はなく、俺は観念して半身を起こした。鳳も俺の腕の中からあっさりと抜け出して、ガラステーブルの上のスマホを一瞥した。

「電話、出たほうがいいんじゃないか。急用かもしれないし」
「あ、ああ……」

 スマホを取ると、ディスプレイには切原の名前が表示されていた。急用である可能性は限りなく低いだろうなと考えながら、通話ボタンをタップする。

「……もしもし?」
「日吉、電話出るのおせーよぉ!」

 能天気な大声は受話口からまっすぐ俺の耳を打ち、甘やかなムードの余韻を吹っ飛ばした。ボリュームを最小にしていても騒々しく感じるくらいの声量だ。

「……なんだ突然。急用でもあるのか?」
「いや急用っつーか、例のドラマだよ! いやー、まさかあのヒロインが黒幕だったなんてなー!」
「……」

 そんなことでわざわざ電話してきたのか、こいつもたいがい俺のこと好きだな……と、呆れのようなうぬぼれのような気持ちが胸にさす。返答に迷っていたら、受話口の向こうからは「……やっべ」と、どことなく心細げな声が聞こえてきた。

「わりぃ……もしかして日吉も配信組だった?」
「……俺『も』って?」
「いや、俺さっき先輩にも同じハナシしちまって……そしたら見逃し配信をまだ見てなかったみたいで、『ネタバレしてくれてありがとうな』って怒られてさ」

 先輩、というのが誰なのか、二人くらいまでは絞り込めるような気がした。そしてその想像が当たっているなら、「先輩」は本気で怒っているわけではなく、切原で遊んでいるだけだろう。

 便乗してやってもよかったが、通話が長引くのは避けたい。俺はまた適当に話を合わせてやりすごすことにした。

「いや、俺はもう見た。さすがにあの展開は予想できなかったな」
「あっ、マジで? よかったー!」

 切原はけろりと声音を変え、例のドラマについての感想を怒涛のようにしゃべり始めた。聞き流すつもりだったのに耳はつい声を拾い、俺は結局、見損ねていた最終回のあらすじを冒頭から結末までばっちり把握してしまう。そのまま口を挟むスキもなく、「んで来週からの新ドラマだけどさー」と、次回作の話までが展開し始めた。

「おい切原、その続きは今度でいいか? 今ちょっと……取り込み中だから」
「え、なに? 洗濯?」
「は?」
「洗濯物、取り込んでんの? 日吉、家の手伝いとかするんだな~」

 ——いや取り込み中ってそういう意味じゃねーよ。

 やっぱアホだなこいつ、と思いながら、俺は「じゃあな」と一言残して通話を切った。明るい声が途切れて静まり返った部屋の中に、「日吉」と呼びかけが落とされる。

「ドラマの最終回だけ見忘れた、って昼休みに話してたじゃん。優しい嘘、つくんだな」

 切原の大声は鳳の耳にも筒抜けだったらしい。

「優しいっつーか、ヘコまれても面倒なんだよ。ふてぶてしいくせにヘンなところで繊細だからな、あいつ」
「ふーん……。彼のこと、よくわかってるんだな」
「……お前、一丁前に嫉妬でもしてるのか?」

 鳳は図星を物語るように口を結んでから、「いや漫画のキャラ相手に妬いてた日吉に言われたくないし!」と反撃してきた。くやしいが言い返せない。

「べつに嫉妬とかじゃない、けど。……ちょっと怒ってはいるよ。せっかくいいところだったのに、って」
「……」

 第三者の割り込みがあったことで、さっきまで部屋の中に漂っていた“ムード”みたいなものはきれいさっぱり消えていた。それどころか冷静になった脳は数分前までの自分を客観視してしまい、俺は猛烈な羞恥に襲われた。さっきまでの自分は、なんか、少女漫画とかの比じゃないくらい恥ずかしいことを口走っていたような気がする。細部は思い出したくないが。

「……鳳」
「な、なに?」
「その……さっき言ったこと、全部撤回する、から」
「えっ」

 漫画と現実どっちか選べとか、最終巻は読むなとか。理不尽な命令が取り下げられたのに、鳳は「なんで?」と不満げに眉を寄せた。

「しなくていいよ、撤回とか。俺、言われてうれしかったよ?」
「うれしかったって……どれがだよ」
「どれ、っていうか全部。最終巻だけ読めないのはどうしようって思ったけど……でも本物の日吉にふれられるなら、俺はそっちを選ぶ」

 自分の膝の上に置いていた右手に、ぎゅっとあたたかい力がかかる。突然手を握られて動揺する俺の横で、鳳は「あのさ」と口を開いた。いつのまにか肩と肩がぶつかるくらい距離を詰められていた。

「俺、たしかにその漫画も好きだし、最初に想像してた以上にハマっちゃったけど。でも本物の日吉のほうがずっとかっこいいしずっとかわいいし、ずっと大好きだよ。百倍も千倍も……っていうか、数字なんかじゃ表せないくらい」
「……」
「こんなの、わざわざ言うまでもないことだと思ったんだけどな」

 よどみなく語り終えると、鳳は上から俺の顔を覗き込んできた。当然の事実を口にしただけだと言わんばかりの涼しげな顔だった。やっぱり俺なんかより、こいつのほうが少女漫画のヒーローに近いんじゃないだろうか。

 頬から耳のあたりが熱をもつ。赤面してしまっただろう俺を見下ろす鳳の瞳に、今度は涼しからざる色がさす。せつなげに揺らいだその視線は、そのまま声になって俺の耳に落ちてきた。

「だから俺、さっきの続き——

 右手にかかる力が強くなる。痛いほどキツく締められたら、鳳の言葉を最後まで聞き終えるより先に体が動いた。何を考えるでもなく体だけが。背伸びするように首をそらして唇をくっつけて、ふわんと柔らかい感触が残ったところでようやく思考が追いついてくる。

「……」

 一瞬だけくちづけて体を離した、けれども次の瞬間に至近距離で目が合って、幸福そうに濡れた瞳を見たらまた磁石みたいに吸い寄せられてしまった。この間、たぶん一秒未満。

 唇に唇でふれる。お互いの表面を撫で合うだけの、ほんの軽い接触だ。ドラマチックだったりはしなかった。俺も鳳も多分へたくそだった。それなのに信じられないくらい満たされた。——ふれあったところからあたたかなものがどっと流れ込んできて、体の中いっぱいに行きわたる。

「日吉……」

 溶けて消えそうな声が、ぬるい吐息になって俺の頬を撫でていく。鳳はふいに両腕を広げ、なにかと思ったときには俺はその腕の中に上体を抱き込まれていた。

 体幹から力が抜けて、鳳の胸にもたれかかってしまう。鳳は俺の体を優しく抱きしめながら、また溶けそうな声を出した。

「どうしよう、俺すっごいうれしい……。日吉とキス、しちゃった」
「……いちいち口に出さなくていい」
「ん……。でも、想像してたよりずっと早かったな。俺たち、まだ付き合って三週間しか経ってないのに」

 心臓が大きく打った。俺も同じことを考えていたから。

「なんだよ。三十巻分くらい焦らしたほうがよかったか?」
「……ううん」

 背中に回されていた手が後頭部へ滑り、髪の中に入ってくる。デカい両手に頭を持ち上げられて上を向いたら、三回目のキスが遠慮なく俺の唇を奪っていった。

「俺、絶対そんなに待てなかったよ。漫画の中ではラストシーンでも、俺たちにとってはそうじゃないし」
「……ああ、そうだな」

 四回目をこっちから奪う。すぐに五回目を奪い返される。六回目も七回目もその先も、続く。

   ***   

 内容は可もなく不可もなく、だった。ドラマではなく、問題の少女漫画の感想である。

 単行本を数冊借りて帰り、就寝前に一読した。よくできた物語であることはわかったが、やはり俺の趣味ではなかった。未知の世界というか、ほとんど異世界だ。

「だから言ったじゃん。日吉にはおすすめしないって」

 風呂敷に包んで返却した本が、鳳のカバンに収められていく。朝練前の部室は寒く、ロッカーを開けてもなかなかコートを脱ぐ気になれなかった。

「いいんだよ、べつに。楽しむことが目的で読んだわけじゃないんだから」
「あ、そっか……そうだな。俺のことをもっと知るのが目的、だったもんな?」
「……」

 きのう勢いに任せて吐露してしまった内心が、鳳に得意げな笑顔をつくらせる。上機嫌を隠そうともしないまま、鳳は俺の前髪にふれてきた。中央の毛束を持っていかれると、視界が明るくなりすぎて落ちつかない。

「で、どうだった? 俺のこと、なにか新しく知ってもらえたかな」
「……まあ、お前が案外マニアックな趣味の持ち主だってことはわかった」
「ま、マニアック?」

 主人公や他の登場人物はともかく、例の三好という男がいけすかないのだ。皮肉っぽく他人を突っぱねるようなことを言うくせに、いざ自分が置いていかれると寂しがってスネる。主人公への愛情表現が、いちいち意地悪の形をとっている。素直じゃなさすぎる言動の数々にいらだって、彼のことを好ましく思う主人公にはどうしても共感できなかったのだが。

「え~、むしろそういうところが魅力的なんだろ?」

 納得いかないというように、鳳は口をとがらせた。

「うーん……日吉はやっぱり、自分と似てるから気に入らないんじゃないか? 同族嫌悪、みたいな」
「だから、似てねーって」

 似てるのになぁとぼやきながら、鳳は指先で俺の髪をもてあそび続ける。いつも前髪で隠れている額に空気がふれ、それから唇の感触がふれた。「日吉のおでこ、立ったままキスするのにちょうどいい高さだ」と、じゃっかん腹立たしい言葉が続く。

「いや、学校の中でするのはマズいだろ」
「……これくらい少女漫画でもやってるよ?」

 どうやら鳳は漫画を引き合いに出して俺を煽ることに味をしめやがったらしい。穏やかにほほえみながら、長身の余裕を見せつけるみたいに——いや鳳自身にそんな意図はないだろうが——俺の頭のてっぺんを撫でてくる。

 その手首をつかみ、鳳の背後のロッカーに押しつける。そのまま体ごと迫って距離を詰めたら、鳳は余裕の表情を消して目を張った。

「あのな。出版物には自主規制コードってモンがあるだろ」
「へ?」
「現実の俺にはそんなものはない。……それを承知のうえで煽ってるなら、こっちは構わないが」
「あ……」

 鳳の目が揺らぐ。静かな部屋の中で、まばたきの音さえ聞こえてきそうだった。

「承知のうえ……だったわけじゃないけど」

 と言って、鳳は俺の頬に手を添えた。真冬なのに温かい手だ。

「いま承知したよ」
「……へえ」

 鳳のネクタイの結び目をつかんで引っぱって、下りてきた唇にくちづける。こうやって鳳に下を向かせるか、俺のほうから上を向くのか、どちらのほうがスマートなのかも今の俺にはまだわからないけど。

 最後のワンシーンまで全部見てみたい。紙の上になんて描けないくらい遥かなところまで。

[23.05.25]


back to TOP