*中2の1月、付き合ってる設定。
*名無しモブ後輩男子がちょっとだけ出てきます。
*日吉くんのお兄ちゃん(捏造)が最後にほんのちょっとだけ出てきます。
冬が終わる前の花
男子運動部の部室には似合わない甘い匂いが、鼻先に迫ってくる。
「日吉部長、また塗ってもらってるんですかぁ?」
明るい声に顔を上げると、愉快そうにへらへら笑う一年生と目が合った。革張りのソファに座る俺と、その足元の床にしゃがみこむ鳳とを交互に見て、「あいかわらず仲良しですね~」と続ける。
「べつに俺が頼んだわけじゃねえからな。こいつが勝手にやってるだけで……」
「——よしっ、右手は完了! 日吉、こんどは左手貸して?」
「えっ……あぁ」
考えるより先に体が動き、俺は言われるがまま鳳に左手を差し出していた。鳳は淡いピンク色の薔薇が描かれたチューブから白いクリームを絞り出し、俺の左手にそれを塗り込んでいった。大きな両手を使って、俺の手首から指先まで丹念に。鳳の手はあたたかくてやわらかく、しっとりとすべるハンドクリームの感触もあいまって、手首から先だけがぽかぽかの温泉につかっているみたいだ。
「……お前、用がないならさっさと帰れよ。もう下校のチャイムが鳴るぞ」
温泉の熱でのぼせそうになりながら、俺は一年生をにらみつけた。もう部内ですっかり後輩にナメられてしまった——ほぼ鳳のせいだ——俺の睥睨に威圧の効果はなく、「はーい」と軽い返事が戻ってくるだけだったけれど。
「じゃ、お先に失礼します。副部長、おつかれさまでした」
「おつかれさま。明日もがんばろうね」
鳳は俺の左手を握ったまま、やっぱりぽかぽかの温泉みたいな笑顔で一年生に笑いかけた。
「部長もおつかれさまでした……ってか、おじゃましました!」
「……るせー」
もう一度にらみつけるより早く、一年生はドアの向こうへと消えていった。部屋の中に残ったのは、沈黙と甘い香りだけ。
「……おい、俺たちもそろそろ帰らねーと」
「ん……あとちょっとだけ。日吉、ほんとにガサガサなんだもん。せっかくきれいな手なのにもったいない」
「もったいないもクソもないだろ。誰も見てねえよ、俺の手なんて」
「え~、俺は見てるよ」
「……」
鳳はささくれだらけの俺の指を一本ずつ撫で、皮膚に擦り込むようにクリームを塗り続けた。
——事の発端は四日前、朝練後の部室でのことだった。乾燥による肌荒れで出血寸前だった俺の手の甲を見た鳳が、「いくら冬でもそれはヤバいよ!」とか騒ぎだし、自分のハンドクリームを俺の患部に塗り始めたのだ。あれから四日間、鳳は部活のたびに俺の手を観察し、乾燥のサインをめざとく見つけては俺の手指の保湿に励んでいる。
それ自体は、俺に不利益があるわけじゃない。が、他の部員たちの目をはばからない能天気さと少女趣味な香りだけは、正直なところ勘弁してほしい。俺だって別に「男のくせにハンドクリームなんて」とか言う気はないが、とはいえパステルピンクの花模様のパッケージは男子中学生として何かが違うだろう(姉からのもらいものだからしょうがないと本人は言っていたが、そんなものは家で使えばいいだけの話だ。わざわざ持ち歩く必要はない)。
「最近ほんとに乾燥ひどいから……トイレで手を洗ったあととか、こまめに保湿したほうがいいよ」
「お前、学校でもそんなことしてんのか?」
「時間に余裕があるときはね。これ使ってるとクラスの女子に話しかけられたりして、ちょっと恥ずかしいんだけど……」
と言って、鳳は困り顔で笑った。
「よし、左手もおしまい。帰ろっか」
「ああ」
コートを着て学校を出、夜の色になった帰り道をたどる。いつもの交差点で鳳と別れ、家に着き、風呂を済ませて布団に入っても、俺の手にはまだかすかに甘い匂いが残っていた。
***
その後も鳳の“日課”は続き、十日が経つ頃には後輩に突っ込まれることもなくなった。鳳が俺にクリームを塗る姿と甘い香りは男子テニス部部室の日常と化し、俺の手肌のコンディションは有意な改善をみせている。まだ多少のささくれはあるが、それ以外は綺麗なものだ。——が、
「指先の荒れ、なかなか治らないな」
鳳は俺の右手を持ち上げて、指先のささくれにじっと目をやった。
「いや、男ならこんなもんでいいだろ。女子じゃねえんだし、ましてや運動部の……」
「日吉、そういうの時代錯誤っていうんだよ?」
「……」
「爪も伸びてきてるから……明日は爪もきれいにしてあげる。爪切りで切ってるだろ、これ」
「は? 爪を爪切り以外の何で切るんだよ?」
鳳は「明日やってあげる」と笑い、ハンドクリームの蓋を閉めて立ち上がった。俺は今日も、両手に甘い香りをまとわせたまま家路をたどることになる。
一月の帰り道は暗く、冷たい風が頬を打った。しかし以前に比べると、凍りつくような手の冷たさは幾分マシになっているように感じられた。保湿の効果はこんなところにもあらわれるらしい。
「なあ、ちょっと商店街に寄ってもいいか」
「うん、いいよ。どこ行くの?」
「スーパーかコンビニか……いや、ドラッグストアがいいか」
俺たちは帰宅ルートを外れ、夜の賑わいをみせる商店街に向かった。人波を縫って進み、書店と百円ショップに挟まれたドラッグストアに入る。まぶしいほど明るい店内で、俺は探すまでもなく目当ての棚を見つけることができた。
入口のドアの目の前に展開された、冬の乾燥対策コーナー。数えきれないほどの種類が並ぶハンドクリームのラインアップの中には、いくつかメンズ向けらしき商品もあった。シンプルなモノトーンのパッケージのものを手に取ると、裏面には鳳が使っているハンドクリームと同じ製薬会社のロゴが載っていた。赤と黄色で構成されたPOPには、〈¥398〉の文字がでかでかと印刷されている。
「これでいいか。安いし」
「えっ……」
と、背後から聞こえてきた声に振り返る。鳳はなぜか不安そうに表情を曇らせていた。
「なんだよ」
「……日吉、それ買うのか?」
「ああ。たしかに効果があることは実感したし、いちいちお前にやらせるより自分で塗ったほうが早いからな。じゃ、俺はレジに——」
行ってくる、と続けるより早く、鳳は俺の手から商品を奪い取った。
「え?」
虚をつかれる俺の前で、鳳は商品を棚に戻し、赤い顔で俺を見下ろした。困っているような、怒っているような顔だった。
「……かっ、買わなくていいよ。こんなの」
「はぁ? ……お前が言ったんだろ、もっとこまめに保湿したほうがいいとか」
「それはそうだけど……」
商品を隠すように立った鳳の脇から、小柄な男の買い物客がおずおずと棚に手を伸ばす。鳳ははっとした様子で「すみません」と謝ると、そのまま俺の手を引いて店外に出た。
「おい、急になんなんだ——」
俺はひっぱられるまま鳳の背中を追うことしかできなかった。商店街の出口まで来たところで、鳳はようやく立ち止まった。
木枯らしが吹きつける冷気のなかで、握られたままの手だけが熱い。
「……手、放せよ」
と言ってから解放されるまで、三秒くらい間があった。鳳が未練がましげに手をほどいた次の瞬間、氷帝の指定コートを着た男子数人が目の前を通りすぎていった。間一髪だ。
男同士でつきあっていることを、なにがなんでも隠し立てしなきゃいけないとまで考えているわけじゃない。だけど世間には口さがない人間がいくらでも存在するから、鳳をそういう連中の目にさらしてしまいたくはない——そう気を揉む俺の横で当の本人はいつも能天気にしているし、そのせいで部活のメンバーとかにはとっくにバレているんだろうが。
鳳はスネた様子で唇を曲げ、ダッフルコートの襟に顎をうずめるようにうつむいた。どういうことだよ、と視線で追及してやる。
「だって、日吉の手は」
と言って、鳳は俺の手元に目を落とした。
「……俺が手入れしてあげるから。自分で綺麗にしたりしなくていいよ」
「……は?」
「俺の役目がなくなっちゃうじゃん。日吉が自分でハンドクリーム塗るようになったら」
「いや、そもそもお前の役目じゃねえよ」
「おっ、俺の役目だし!」
鳳は力強く断言し(なんでだ?)、また俺の手を握ろうとした。俺はそれをかわし、コートのポケットに両手を突っ込んで、来た道を戻った——もう一度ドラッグストアに行くために。
「日吉、待ってよ! 買わなくていいってば!」
「甘すぎんだよ、この匂い」
「におい?」
花とバニラが混ざったような、俺には似合わないあまったるい匂い。この匂いのせいで、彼女ができたんじゃないかと兄に勘繰られたりもしたのだ。
彼女なんかじゃない、と言い返すことしかできない自分が、心のどこかで嫌いだった。
***
「日吉部長、また塗ってもらってるんですかぁ?」
「うるせえ。黙れ」
「日吉、いくらなんでもそれはひどいよ……」
昨日と同じ時間帯の、昨日と同じ部室のソファの上で、俺はやっぱり昨日と同じように、鳳に片手をあずけている。昨日と違うのは、俺の手に塗りたくられるクリームから例の甘い匂いがしないことだ。
「あれ? 無香料のやつに変えたんですか、それ」
「うん、日吉にダメ出しされちゃってね」
「へー……まぁたしかに部長には似合ってませんでしたけど」
「……だからお前、用がないならさっさと帰れって」
「はぁい」
一年生は間の抜けた声で返事をしてから、「でも部長だってもう部室に用はないですよね?」と捨て台詞を残して去っていった。その生意気さに閉口する俺の前で、ふいに鳳が相好を崩す。
「俺うれしいな。日吉が部員から愛されてて」
「愛って……おちょくられてるんだろ。お前のせいで」
鳳は「そんなことないよー」と無責任に笑い、俺の手を自分の眼前に持ち上げた。
「これ、たぶん香料以外は俺のと同じ成分なんだろうね。使い心地がいっしょだ」
「ふうん」
ハードな部活の練習を終えた直後でも、俺の両手はすみからすみまでぬかりなくケアされて美しい。今日はヤスリのような謎の棒(なんとかボードというらしい)で爪まで整えられたから、指先は特にぴかぴかだった。
綺麗であることは良いことだ。頭がそう判断する一方で、心はどうにもむずがゆくなってくる。自分はこんなふうにぬくぬくと大事にされることが似合う男ではないのに、って。
「でもよかった。無香料のやつに替わっても、俺の役目は残してくれて」
「だから、べつにお前の役目じゃねえって」
「いいじゃん、俺の役目ってことにしてよ。冬のあいだはずっと保湿してあげるし、春になったら日焼け止めも塗ってあげるから」
「……なんなんだよ、その執念は」
「執念っていうか……」
鳳は俺の手から手を離し、ガラステーブルに広げられた道具を片付けながら続けた。
「花が枯れそうになってたら水をあげたくなるだろ。それと同じだよ」
鳳はこともなげに言って笑った。そんなふうに屈託なくほほえむことができる鳳自身のほうが、俺なんかよりずっと“花”の比喩に似つかわしいだろうと思った。
だけど俺は花への適切な水やりの方法を知らず、鳳はそれを知っている。
***
今日は無香料のクリームしか塗られていない。しかし俺の左手には結局、今夜もあの甘い香りが残っている。
学校を出てからいつもの交差点で別れるまで、およそ十五分——匂いが移るにはじゅうぶんな時間だった。
「若、それやっぱり彼女だろ~?」
帰宅するなり玄関先で鉢合わせた兄が、ニヤニヤとうれしそうな顔で見下ろしてくる。俺の手に残った匂いをまた目ざとく——いや、「鼻ざとく」?——嗅ぎつけて、うっとうしいほど楽しげな表情で。
「……違うっつってんだろ。これは……」
部室棟のトイレのハンドソープだよ、跡部さんが趣味で買ったイングリッシュローズの香りとかいうのがまだ残ってて——みたいな、適当な嘘でもこの兄は騙されてくれそうな気がした。だけど口を開こうとした瞬間、俺の脳裏には枯れかけた白い花のイメージがよぎり、左手にはしっとりとしてあたたかな感触がよみがえった。
「……ハンドクリームの香料だ。鳳が使ってるんだよ」
「へ?」
拍子抜けした様子の兄の脇を通りすぎる。背後で「なーんだ」と落胆の声が聞こえたが、無視して手洗い場へ向かう。外から帰ってきたら、まずは手洗い・うがいだ。
蛇口をひねり、冷たい水に左手をさらす。昨日までのようにしっかり塗り込まれたわけじゃないから、軽く水で流すだけであの匂いは消えてしまうだろう。
なごりおしいわけじゃないけれど、少しだけ悔しい。
花の香りを洗い流した水は排水口に吸い込まれて消え、俺はいつもと同じように手を洗って自室に戻った。廊下で兄が、「最近会ってないなー、鳳くん」と、やかましい声を上げるのが聞こえていた。
[25.01.30]