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冷たい海


 去年の跡部さんのテストの点数を尋ねても、学校の先生たちは教えてくれない。だから俺は全教科で百点満点を目指さなきゃいけない。満点を取れば、少なくとも一年前のあの人に負けることはないからだ。

 二年生最後の期末考査は、明日が最終日。残すはドイツ語と日本史で、どちらも俺の得意科目だ。だからこそプレッシャーが強かった。

 義務教育のペーパーテストなんて、この世にあふれる数多の試練に比べればきわめてチョロいに違いない。まして得意科目のそれなんて、だ。その程度の課題も完璧に処理できないようでは、下剋上など夢のまた夢だろう。

「ねー日吉、さっきから眉間のシワすごいよ?」

 勉強道具を広げたガラステーブルの向こうから、ゆるい声が飛んでくる。集中が切れ、俺はため息とともに顔を上げた。

「ま、日吉はいっつも目つき悪いけど」

 と、鳳は呆れ顔で笑った。

 選択科目の関係で、鳳は今日すでに期末考査を終えている。だからもう焦る必要もなく、俺が必死に勉強する姿をアホ面で眺め続けているのだった。

「うるせーよ。人がせっかく集中してるのに水をさすな」
「だって、さすがにそろそろ休憩したほうがいいと思って……。俺ちゃんと見分けられるんだよ? 日吉が疲れてるときの眉間のシワと、単に目つきが悪いときの眉間のシワ」

 鳳は立ち上がり、こっちに来て俺の左手を取った。

「ね、一時間でいいから休憩しよ? 無理したらかえって効率落ちちゃうよ」
「一時間なんて……それだけあれば新しい単語を三十個は記憶できる」
「ええ~……」

 駄々っ子みたいな声を上げて、鳳は眉間にシワを寄せた。これは「心配」のシワだ。

「日吉、ストイックすぎるよ。そこまで根を詰めなくても日吉なら絶対いい点取れるし、順位だって毎回トップクラスじゃん」
「俺の目標は『いい点』じゃなくて『満点』だし、『トップクラス』じゃなくて『トップ』なんだよ」

 だって跡部さんはいつもトップなんだから——と、口に出さなくても伝わっただろう。

 俺は氷帝テニス部の部長だ。したがって、学業においても疵瑕があってはならない。

 むろんテニスの腕に学校の成績は関係ない。しかし、そんな問題ではないのだ。去年まで跡部さんが座っていた玉座の輝きを鈍らせることは、誰より俺自身が許せない。絶えず努力し、可能な限り完璧に近い自分であり続けて、あの人が残していった誇りを守らなければ。

 俺はノートに目を戻した。

 鳳は俺の左腕をひっぱった。

「……じゃあ三十分……いや、十五分だけでもいいよ。日吉、頑張りすぎてしんどいときの顔してるんだもん。もう五時間は勉強してるし……俺ほんとに心配」

 鳳は心細げに言った。六時間ほど前、「今日は俺の部屋で勉強していかない?」と誘ってきたときの彼の表情が脳裏をよぎった。なるほど、こいつは俺の状態を見張るために俺をここに連れてきたのかもしれない。

 さっきとは違う作用で、ため息が出る。俺は限界まで自分を酷使したって構わないのに、氷帝テニス部副部長の鳳はいつも限界の寸前でそれを阻止してくるのだ。副部長という新しいポストを作ってそこに鳳を据えた先輩たちは、きっとこんな展開も見通していたんだろう。

「……わかったよ。十五分だけな」
「よかった……ほら、こっち来て日吉」

 俺は鳳に手を引かれるまま窓際のベッドに上がり、布団にもぐりこんだ。このベッドはいつ寝てもふかふかで、巨大なマシュマロに体を挟まれるみたいだ。

「十五分経ったらちゃんと起こすから、日吉は寝てていいよ」

 鳳はにこにこしながら布団に入ってきて、俺の隣に体を横たえた。でかい熱の塊にぴたりとくっつかれたことで、俺の体も熱くなった。

「お前も寝るのかよ」
「うん。せっかくだから」

 ピ、とリモコンの音が鳴って部屋が暗くなる。横から伸びてきた腕が俺の上体を抱き、やがて柔らかな手が俺の髪を撫で始めた。ふれたものをとろとろに溶かしてしまう魔法があるなら、きっとこんな手つきだろう。

 やわらかい布団、あたたかい体、優しい手……それらは俺の心身の緊張を解いた。うすっぺらいガラスの足場が割れて、底のないぬるい海に沈んでいくみたいだ。

 俺は強固に築いた地面にしっかりと足をつけて立っているつもりだった。それなのに、実はこんなにももろい足場だったなんて。

「ね? ちょっとだけでも休憩とって正解だっただろ」

 俺の脱力を感じ取ってか、鳳はうれしそうな声で言った。

「……」

 肯定も否定もしがたい。俺の体は穏やかな温もりだけでなく、苛烈な熱さも感じ始めていた。癒やされたのは事実だが、煽られたのもまた事実だったのだ。

 疲労は性欲の温床にもなる。というか疲れていてもいなくても、布団の中で好きなヤツに密着されておとなしくしていられるほど俺は大人じゃない。

「こんなの休憩にならねえ」
「え……」

 俺は布団の中で身を起こし、鳳の体にのしかかった。暗い部屋の中で、鳳は意外そうに瞬きを繰り返した。その表情の間抜けさがたまらなくて胸の奥がギュッとなった——次の瞬間、俺は鳳の唇に唇をくっつけていた。

「ん、っ……」

 あまったるい声が上がる。それでまた体が熱くなる。腹の底から脳天まで、痛みながら熱く。ふるえる前歯の隙間から舌をいれて絡めたら、頭の裏側がぞわぞわした。ほんのりとチョコの風味が伝わってきた。俺が口内をまさぐると、鳳は切れ切れの声を上げながら体をよじったり、びくんと跳ねたりした。両手は俺の背にしがみついていた。

「……なんか甘いな、お前」
「ぁ……さっきお菓子食べたから……」
「へえ」
「っていうか、待って日吉……これじゃ十五分で終わらないよ」

 言葉とはうらはらに、全然困っていない声だ。媚態さえ感じさせる響きで言って、鳳は俺を見た。シャツのボタンを全部開けてやると、瞳はますます期待の色で濡れ始めた。

「お前、本当は俺を休ませる気なんてなかっただろ」
「え……なんで」
「最初からこうやって自分の欲求不満を解消するつもりだったんじゃないか」
「ちっ、違うよ! 俺はほんとに純粋に日吉のことが心配で……」
「じゃあ今から抵抗して、無理やりにでも俺を寝させたらどうだ?」
「……いや、それは」

 鳳は気まずそうに唇を結んだ。その唇にくちづけると、即座にうれしそうな返礼が返ってきた。俺の言い分も無茶苦茶だが、こいつに本当に一切の下心がなかったかどうかも疑わしい。

 キスの応酬から離れて、鎖骨のでっぱりに唇をつける。なだらかな骨のカーブをたどっていくと、途中でネックレスにぶつかった。鳳はいそいそとネックレスを外し、続きを促すように俺の髪を掻いた。

 ふっくらとした胸の皮膚に舌を這わせて、ゆっくりと舐めまわす。飢えた人がバターの香りとカロリーの虜になるみたいに、俺の舌は左右の胸のふくらみを食らい続けた。食われるばかりの鳳はもどかしそうに身じろぎ、やがて物欲しげな声で俺の名前を呼んだ。

「日吉、もっと……」

 布団の中は熱と湿気と欲望でいっぱいになっていた。俺は片足で掛け布団を蹴って床に落とした。そうしたら鳳は俺の下半身に両脚をからめてきた。硬くなり始めた自分の性器が、ズボン越しに鳳の股をえぐるのがわかった。

「っ、ぁ……これ、服がなかったら入っちゃうね……」
「……」
「……うれしい。日吉のも硬くなってる」

 腰を押しつけたまま、乳首を口にふくむ。舌に力をいれてその突起をこねまわすたびに、甘い声が上がったり、息が震えたり、こすれあった股間がびくんと跳ねたり……快感に耐える鳳の反応の一つ一つがいちいちかわいく感じられて、イラつくくらいだ。ふにゃふにゃにふやけた表情も、敏感に反応する熱い体も、わけがわからないほどいとしくなってくる。

 こうなってしまったら、あとはもう沈んでいくだけだった。ぬるい海の底へ、深く。

「ぁ……っ、日吉、それきもちいい……」
「ん」
「ねぇ、俺もう下も脱ぎたい……」
「……あ」

 ヘッドボードに置かれた時計が目に入って、俺は反射的に体を起こした。あたたかい海の底から、一瞬で雪の地上に引き上げられるようだった。

「……十五分経ったな。勉強に戻る」
「えっ」

 リモコンで照明をつけ、服の乱れを整えてテーブルに戻る。ベッドの上で呆然としていた鳳は、赤い顔のまま横に来て俺をにらみつけた。

「続きしようよ、日吉……」
「最初に言っただろ、休憩は十五分だけだって」
「そ、それはそうだけど……ありえない、こんなとこでお預けなんて。日吉だって勃ってるじゃん」

 と言って、鳳は俺の股間をつかんだ。

「こっ、こんなの気合でどうとでもなる。心頭滅却すれば、って言うだろ」
「……そんなぁ……」

 鳳はがっくりと肩を落とし、ため息とともに頬杖をついた。

「日吉、そんなに百点取りたいの?」
「当然だ」
「学校のテストって、そこまでたいしたものじゃないと思うけど……」
「その通りだ。だからこそ、その程度のことは完璧にこなせるようになるべきだろ」
「……ふうん」

 学校の先生は去年の跡部さんの成績を教えてくれない。だけど、仮に去年のあの人が九十五点だったとしても、俺が目指すのは九十六点ではなく百点だ。

「日吉がそこまで言うなら、俺も応援してるね。……もし百点だったら俺、日吉の言うこと一つ、なんでも聞いてあげる」
「え?」

 思わず顔を上げる。鳳はイタズラっぽい顔で笑っていた。

「副賞だと思ってよ。ちょっとはモチベーションに貢献できないかな?」
「……なんでもって、本当になんでもか?」
「うん。日吉が俺にしてほしいことなら、なんでもいいよ」
「本当だな? 土壇場で拒否したりしないだろうな」
「そ、そこまで念を押されると……。たとえばどんなこと?」
「心霊スポットとして有名な廃教会が埼玉にあるんだが、けっこう遠いから一人だと道中に手持ち無沙汰になりそうでさ」
「あ……そういうの?」

 鳳は意外そうに目をまるくした。——いったい“どういうの”を想像していたんだろう。

「うーん……まあいいよ、そういうのでも。俺ぜったい怖がって騒がしくするけど、日吉がそれで構わないならね」
「ああ、構わない。言質はとったからな」
「……俺、日吉とお出かけするのは大好きだけど、きもだめし系だけは同じ趣味の人と行ったほうが日吉自身も楽しめると思うんだよなぁ」

 鳳は腑に落ちていない顔でぼやいた。俺自身も腑に落ちていないのだ——こいつの怖がる姿を見ることが、心霊スポット巡りそのものと同じくらい楽しくなってきたなんて。

 俺は机上のノートに目を戻した。勉強を再開すると、脳は驚くほどのパフォーマンスを発揮した——十五分間の休憩のおかげか、それとも鼻先に吊るされたニンジンのおかげか。前部長の誇りを守るという高潔な目標が、“副賞”への下心にとってかわられたみたいで複雑だ。

「……テストが終わったらさっきの続きもしようね、日吉」

 のほほんとした声が耳に入る。極度の集中で張りつめた心に、優しいさざなみをたてる。氷の海を一人で歩いていく俺の覚悟はいつも、こいつが運んでくるぬるま湯のせいで少しだけ溶かされてしまう。

[25.04.25]


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