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友だちの話 (3ページ)


 途中で水分補給をしたりまどろんだりしながら、夜の八時を過ぎるまで二人でベッドの上にいた。俺たちが慌てて服を着たのは、窓の外で車の音が聞こえてからのことだった。

「やばっ。みんな帰ってきちゃった」

 自分の腕の中で目を閉じていた鳳がそう言うのを聞き、俺は飛び起きて服を着込んだ。鳳はさっき俺が外したシャツとベストのボタンをひとつずつ留め直しながら、「たしかに面倒だね、この服」と呟いた。

「俺、せめて一言挨拶してから帰らないと。留守中に勝手に上がり込んでこんな時間まで長居して……」
「そんな、上がり込んだなんて。俺のこと心配してお見舞いに来てくれた、ってことでいいじゃん」
「見舞いって、でも仮病だったんだろ」
「同じことだよ、日吉のおかげで元気になったのは事実だもん。俺、先に行ってみんなに話しておくから、日吉は荷物まとめたら下りてきて」

 騙すようで気がひけたが、たしかに口実にはちょうどよかった。一階に下り、玄関で鳳の母と姉と祖母(と猫)に挨拶をすると、彼女らは俺が“お見舞い”のために夜の八時まで居座っていたことを訝るでもなく感謝の言葉を並べ立てた。今朝までは憂鬱そうだった一人息子の顔つきが見るからに明るくなったという話に始まり、いつのまにか過去に俺が送った年賀状の字が綺麗だったとかピアノコンクールの際に渡した花束のセンスがよかったとかの話にまで発展して、俺の困惑を見かねたらしい鳳本人が「もうそのへんでいいから」と制すまで、俺はほとんど褒め殺し状態だった。幼稚舎の頃から今まで、鳳とは普通の友人として付き合ってきたつもりだったけれど、どうやらここの家族にとって俺は“息子の恩人”にもなっているらしかった。当の息子がいつもいちいち大げさに話をしているのかもしれない。

「そこまで送っていくから、日吉は玄関で待ってて」
「ああ……いや、外に出てる」
「そう? じゃ、コート着たらすぐ行くね」

 家の外は暗くて寒かった。門の手前で待っていると、ふいに背後で足音がした。鳳かと思って振り返ったが、そこに立っていたのは彼の父親だった。

「こんばんは、日吉くん」
「あ……こんばんは。ご無沙汰してます」
「お見舞いに来てくれたんだってね。長太郎、ゆうべからずっと調子が悪そうだったのに、さっき会ったら嘘みたいに元気になってて驚いたよ。本当にありがとう」
「……いえ、そんな。俺が何かしたわけじゃないです」

 むしろ「ゆうべからずっと調子が悪そうだった」ことこそ俺が原因なので、感謝されればされるほどいたたまれなかった。車拭き用らしきクロスを持った彼は玄関を出てガレージに回り、ライトをつけて車のルーフを拭き始めた。中途半端に会話を切るのも失礼な気がして、俺もそのあとをついていった。

「日吉くん、小学生の頃にも自分の体操服を包帯にしてあの子のケガの手当てをしてくれたりしたよね。あれ、親としてもすごくうれしかったし、インパクトがあったなあ」
「いや……もうやめてくださいよ、その話。お会いするたびに必ず聞いてますよ」
「うん、きみに会うと必ず思い出しちゃうからね」
「もう四年も前のことですよ?」

 体操服一着分のコストを考えるなら確かに贅沢な包帯ではあっただろうが、何年も飽きずに感動してもらうほどのことではないと思う。だいいち“無償の善意”なんて、他ならぬ鳳こそがその権化みたいな人間なのに。

「大人にとってはつい最近のことだよ、四年前なんて。……お見舞いに来てくれたってことは、やっぱり学校でも元気がない様子だった?」
「ええと……まあ、多少は」
「そっか。最近なんとなく疲れた顔してることが多かったんだけど、きのうは特にひどくて……。それにしてもわざわざ家まで来てくれるなんて、やっぱり優しいんだね」
「いや、その……他の用事もあったし、ついでみたいな感じです」
「それでも毎日忙しいんだろう? うちの子のために貴重な時間を割いてくれてありがたいよ」
「……や、ホントにたいしたことはしてないんで……」

 彼はまるきり息子と同じように屈託なく笑いながら俺を褒め続けた。人のよいその笑顔を向けられるたびに、俺はすべてを見透かされているんじゃないかという疑心暗鬼に襲われた。この人は大切な箱入り息子を手籠めにした目の前の男に対して、その全部を見抜いたうえで皮肉を言っているんじゃないだろうかと。もっともこの家の人間に限ってそんな嫌味なことはありえないし、“手籠めに”されたのは俺のほうも同じなのだが。

「日吉、おまたせ」

 今度こそ鳳本人の声が背後から俺を呼んだ。彼は父親に「ちょっとそこまで行ってくるね」と声をかけると、道路に出て俺の家の方向へ歩き始めた。

「またね、日吉くん」
「は、はい。失礼します」

 夜道には雨上がりの水の匂いが満ちていた。人通りも車の往来も少ないせいで、街はさながら深夜のような雰囲気だ。

「……なあ、見送りとか別にいらないぞ。かえってお前のほうが危ないだろ、家に戻るときに」
「ええ?」

 と、鳳は面食らったように目をまるくした。

「俺はなんにも危なくないよ、男だし……。昔はちょっと怖そうな人に声かけられたりとか時々あったけど、背が伸びてからはそういうの全然なくなったし」
「……お前、体だけでもデカく育って本当によかったよな」
「それ、家族にもよく言われる。……っていうか俺、日吉のことだって危ないと思って送るわけじゃないよ? ただ少しでも長くいっしょにいたいだけ」
「……そうかよ」

 鳳は俺の隣を歩きながら、俺の顔を見下ろして穏やかにほほえんだ。さっき俺に対して口々に感謝を述べてくれた人たちは今日あの家の中で本当にあったことを知ったらどう思うんだろうか——という怖い疑問がふと頭をよぎったが、今はとりあえず放擲しておいた。


 【3】3月  

 新しい部誌サイトは修了式の翌日に公開された。部員全員のID登録も済み、あとは年度明けの新入生を待つのみ。滑り出しは順調だ。

『おつかれさん。しかし完成まで一か月強とはなぁ』

 俺やったら三日かからんわ、とイヤホンの向こうで財前がぼやいた瞬間、文机の上の置き時計が十八時を打った。あと半時間ほどで例によって“観たい配信”が始まるらしく、彼にとってはこの通話もやはり暇つぶしだ。しかし俺には礼を言うという目的があった——二重の意味で。

「お前には本当に助けられたよ。気持ち程度になるが、今度なにか礼を送らせてもらう」
『え、ほんまに? ……そない言うたら、東京にしか店を構えてへん老舗の和三盆が絶品らしくてな……』
「ああ、あとで店の情報とか送っといてくれ。俺に買えるものなら買ってくる」
『いやぁ、なんや要求したみたいで悪いな』
「……あともうひとつ、財前に話そうと思ってたことがあって」
『ん?』
「その、前にも話した……鳳のことなんだが」

 先月俺と鳳のあいだに起こった出来事について、俺は内容の濃度を百万分の一くらいまで希釈して手短に語った。それでもそこそこ衝撃的な話だろうが、財前はただ「ふうん」と気のない相槌を打つだけだった。

『よう分からんけど、丸く収まったんならよかったんちゃうの』
「お前、反応薄いな」
『俺にリアクション芸とか求められてもなぁ』

 “芸”は求めてねえよとツッコミを入れそうになったが、俺より先に財前が「しいて言えば」と二の句をついだ。

『えらい律儀やな、とは思たけど』
「律儀?」
『日吉がそない個人的なこと、俺にわざわざ報告してくるとは思わへんかったわ。俺ら、べつに友達ってわけでもないやろ』
「ああ……」

 鳳とのことは今のところ誰にも話していない。友達と呼べる相手にも、そうでない相手にも。まあ部活の先輩の一部には話さずともバレているような気がするが、自分の口から誰かに明かしたのはこれが初めてだった。

「財前は特に興味もないだろうが、この件については報告しておくのが義理だと思ってな」
『義理?』
「お前、あの合宿で目撃したことを誰にも話さないでいてくれただろ。もし誰かに知られて変に突っつかれたりしたら、多分もっと事がこじれていたと思うから……お前には感謝してるんだ。ありがとう」

 こんなふうに改まって感謝を伝えるのも気恥ずかしいが、これがスジというものだろう。音声通話なので向こうには伝わらないが、気づいたら頭も下げていた。財前は無言だった。感謝に対しても反応が薄いなと考えた俺の耳に、「あぁ」と煮え切らない声が届く。

『や、たしかにな。しゃべってはおらんけど』
「え?」
『その』

 財前は何かを口ごもった。

『……誰だか特定できひんように匿名加工してちょっとばかし脚色もして、ブログのネタにはさせてもろたっけな』
「はっ!?」
『けどお前らのこと知っとるヤツはほとんど読んでへんし、心配せんでええよ。PVもたいして稼げんかったしな』

 まるで罪悪感のない口調だった。そのせいで怒る気が失せた。ただこいつに恩を感じていた分の時間と情緒がもったいなかったとは思ったが。

「くそ、感謝してソンした……」
『まあまあ、そない険しい声出さんといてや。同じ部屋で寝泊まりした仲やん』
「うるさい。俺たち、べつに友達ってわけじゃないだろ」
『ほんなら部誌サイトの助っ人の手間賃っちゅうことでひとつ』
「そっちはきっちり時給計算して実費として支払わせてもらう。じゃあな」

 俺は短く言い捨てて通話を切った。スマホを机に置く手に余計な力が入った。財前は最初こそ遠慮がちだったが、話を進めるにつれ声が冷やかしの響きを帯びていくのがいやというほど伝わってきた。自分におとなげない対応をとらせた理由が怒りではなく照れだとか、どうしたって認めがたい事実だけが残っていた。

   ***   

 財前との通話の直後に鳳からメッセージが来た。突然だけど夜桜を観に行かないか、という誘いだった。

 この時季、学校のそばの川では夜間に桜並木のライトアップが行われている。提灯の明かりに照らされた桜を眺めつつ待っていると、待ち合わせの十九時に数分遅れて鳳が駆けてきた。

「日吉、遅れてごめんっ! ちょっと出際にバタバタしちゃって……」
「……本当か? お前のことだから、道中で人助けでもして時間を食ってたんじゃないか」

 たった数分とはいえ、俺も鳳もめったなことでは遅刻なんてしない。案の定、鳳は図星の顔になった。

「……日吉、カンがよすぎるよ」
「最初から正直に言えばいいだろ。なんでそんな雑な嘘つくんだ」
「だって~……。『道に迷ってたおばあさんを助けて道案内してたら遅刻した』とか、口に出すとむしろそっちのほうが嘘っぽくないか?」
「だとしても俺は疑わねーよ」

 こいつの横にいて、実際にその手の現場を何度見せられたかわからない。たとえ嘘っぽく聞こえたって、俺にそれを疑う理由はなかった。

 平日だからか並木道に花見客はまばらだった。桜のトンネルの中を歩きながら、鳳は上から落ちてくる花びらをキャッチしたりしてはしゃいでいた。対照的に、俺の内心は曇りつつあった。

「……あのさ。ちょっと報告があるんだが」
「報告? あ、もしかして部活のサイトのこと?」
「それとは違……いや、間接的には関係あるが……」

 俺は合宿での出来事がブログのネタにされていた件を話した。動揺するんじゃないかと思ったが、鳳は「そうなんだ」と軽く言うだけだった。

「そうなんだ、って……お前、怒ったりしないのかよ」
「うーん、実名だったらさすがに困るけど、ちゃんと匿名にしてくれてるなら……。もとはといえば俺が廊下なんかで大声出したのが悪いんだし、見聞きしたことを書くのはその人の自由だしな」
「……いや、まあ……お前がそれでいいならいいけどよ」

 どうにも拍子抜けだが、俺のほうが過剰反応だったんだろうか。鳳は気遣わしげに俺の目を覗き込んできた。

「日吉は気になるんだ?」
「……多少はな」
「じゃ、実際に見てみる? その記事」
「えっ」

 鳳が当然のように言うので、俺はつい間抜けな反応をしてしまった。「お前、財前のブログ知ってるのかよ」と聞くと、鳳はやっぱり涼しい顔で「うん」と頷いた。

「合宿中に一度、ネタ集めに協力したことがあってさ。そのときにURLも教えてもらったから」
「へー……」
「たしかに書き方によっては困るかもしれないしな。実際に読んで確かめてみようよ」

 俺たちは並木道のベンチに腰かけ、二人で鳳のスマホを覗き込んだ。画面には問題のブログらしきページが表示されていた。

「十一月のアーカイブ遡れば、それっぽい記事があるんじゃないかな」

 さすがに合宿で忙しかったせいか、十一月の記事数は他の月よりも少なかった。画面に並んだ記事タイトルに入るキーワードは〈洞窟で野宿〉〈合宿所の怪談〉〈最近観た映画〉などで、それらしい記事は見当たらない。念のため十二月のページを見ても同じだった。

「うーん、見つからないなぁ……。もしかしたらその話、日吉のことをからかうための嘘だったんじゃないか?」
「いや、そうだとしたら遠回しすぎる。もっとストレートに冷やかしてくれば済む話だろ」
「じゃ、日吉の反応を聞いて記事を削除してくれたのかな。また電話して聞いてみたら?」
「ああ……でも明日以降だな」

 今はくだんの“配信”を観ている最中だろうから、俺からの電話なんて無視一択に違いない。手持ちぶさたな気分になり桜を見上げていると、ふいに横で鳳が「あっ」と声を上げた。

「あった。多分この記事だ」
「えっ」
「関係なさそうな記事も一応開いてみたんだけど、これ……」

 画面に目を戻す。それは例の出来事の十日後に投稿された記事で、そこにはたしかにあの一件の簡略ないきさつが記されていた——ただし“最近観た映画の内容”という体裁で。

「フェイクもかなり入ってるし、ほんの十行くらいの短い記事だし……。これじゃ、俺たちのことだって気づく人はまずいないだろうな」

 その記事の中では、例の出来事の舞台はあの合宿所ではなく映画の中の海外の高校ということになっていて、内容は概要とすらいえないくらいの断片的な記述にとどまっていた。文章もゴシップ的なトーンではなく淡々としていて、後半では書き手——つまり財前——が幼い頃に憧れたという“ヒーロー”の雄姿について触れ、〈「なりたい」も「愛されたい」も、最初は同じ一つの感情だったはず。〉という一文で締めくくられていた。出来事の記録というよりも、あの一件からわずかばかりの影響を受けて創作された散文詩のような記事だった。

「……なんだこれ。ここまで加工してたら、もう俺たちが“元ネタ”とはいえないレベルだろ」
「うん、俺もそう思う。それでもちゃんと報告してくれたんだから、財前って意外と律儀なヤツだな」

 鳳は平和な顔で笑ってスマホの光を消し、八分咲きの桜を背に立ち上がった。「もうちょっと奥まで歩いてみようよ」と促され、俺も隣に並んだ。

 夜の空気は冷涼としていた。まだ春になりきっていない肌寒い微風が吹き、川の匂いの中にはほのかに甘い桜の香りがあった。頭や肩に花びらを浴びながら川沿いを歩き、途中で屋台のタコ焼きとか鈴カステラとかを買って二人で分けた。鈴カステラにはハートの形をした“当たり”が入っていた。

「あっ、あの子たち……」
「ん?」

 “当たり”を口に運びかけた鳳が視線を動かし、俺もつられてそっちを見た。何人かの通行人を挟んで数メートル先に、俺たちと同年代らしき男女の二人組が手をつないで歩いているのが見えた。鳳は小声で続けた。

「うちの学校の一年だ」
「ふうん。知り合いか?」
「友達の部活の後輩で、何回か話したことがあってさ。……あのふたり、つきあってたんだ……」
「はあ」

 俺にとっては友達の友達の後輩——要するに他人なので、「はあ」としか反応のしようがなかった。しかし鳳は遠い目をして二人の後ろ姿を見つめていた。右手に持った竹串の先にカステラをさしたまま。

「食わねーのか、それ」
「……あ、いや……」

 鳳はぎこちなく目をそらした。わかりやすい綻びだった。長いあいだ器用に“ただの友達”の演技を続けていたヤツと同一人物とは思えない。

「……先に言っておくが、俺は公衆の面前でああいうことはしないぞ」
「えっ」
「ついでにもうひとつ言っておくが、男同士だから、って理由じゃないからな。仮に俺かお前のどっちかが女だったとしても、俺は人前であそこの一年みたいなことはしない」
「……わっ、わかってるよ! っていうか俺、べつになんにも言ってないだろ!?」

 カステラが地面に落ちた。鳳は慌てた様子でそれを拾い上げ、ティッシュに包んで道沿いのゴミ箱に入れた。「日吉のせいでムダにしちゃったじゃん」とかなんとか恨み言を垂れながら。俺はその背を見ながら、でも俺か鳳のどちらかが女だったらそもそも友達にはなっていなかったかもしれないな、と考えていた。

「目が口ほどに物を言いすぎてるんだよ。なにも言ってなくても」
「そっ、んなこと……ないし」

 一年生たちの姿は見えなくなっていた。ふてくされた顔で歩いていた鳳は、やがて学校のそばの橋のたもとで足を止め、表情をやわらげた。

「日吉、おぼえてる? 俺、昔ここで日吉に助けてもらって……」
「いや、さすがに忘れねーよ。お前、俺をどれだけ薄情だと思ってるんだ」
「そういうわけじゃないけど……。ただ、日吉にとっては些細なことだったかもしれないと思って」

 あんなこと忘れられるわけがないし、些細な記憶でもない。鳳は赤い欄干がついたその橋を渡り始めた。橋を歩くと川の水音がわずかに耳に届いた。足の下の床板の数メートル下方では、川面に乗った花びらが暗闇のなかを流されていた。

「俺、ほんとにうれしかったな。日吉が助けてくれて」
「……あのときも言ったけどさ。ケガの手当てに関しては善意でも、あの男に言い返したのは全然お前のためとかじゃないぞ」
「うん。わかってるよ」
「ほんとかよ」
「ほんとだよ」

 鳳はあの日あの男の自転車が立て掛けられていたあたりまで進むと、欄干に手をついて川を見やった。

「あのときはわかってなかったけど、少し経ってからわかったよ。それでよけいにうれしくなった」
「は? なんでだよ」
「日吉はあのとき、自分の理想とか美学のために怒ってて……。人のためだけじゃなく自分のためにも怒れる日吉は素敵だなって、俺ますます好きになっちゃって」
「……あんな昔から好きだったのか? 俺のこと」

 鳳は思案顔で「どうだったかな」と呟いた。

「ちゃんと自覚したのは最近だけど。でも気づいてなかっただけで、あのときから好きだった気がする」
「ふうん」
「俺、日吉みたいになりたかった……」

 と、鳳がひとりごつように言った瞬間——頬に吹きつけた北風から震えが来てくしゃみが一つ出た。鳳は心配げに眉を下げた。

「ごめん、川の上は寒かったね。これ着てていいよ」

 鳳はカーディガンを脱いで俺の肩にかけた。シルクでも織り込まれていそうな、肌触りのいいニットだった。

「いや、これじゃお前が寒いだろ」
「俺はへいきだよ。体温高いし、冬生まれだから寒さにも強いし」
「俺も冬生まれなんだが」
「ま、いいからいいから」

 俺はほぼ押し切られる形でそのカーディガンに袖を通した。もともと丈が長めのデザインなんだろう、俺が着るとなかばワンピースのような長さになった。余った袖を折りたたむ俺を見下ろしながら、鳳はうれしそうに笑った。

「ふふっ、日吉ぶかぶかでかわいいな」
「……だからヤなんだよ、お前の服着るの」
「寒いよりはいいだろ?」

 今のこいつの服はサイズも合わないし、俺にはやっぱり似合わない。暗いから正確にはわからないが、このカーディガンは桜に似た淡いピンク色に見えた。

「あ、せっかくだから写真撮っていい?」
「いいわけないだろ……っておい、撮るな!」

 こっちを向いたスマホのレンズを手で覆うより早く、カシャリと撮影音が鳴った。鳳は俺の写真を収めたスマホをお守りみたいに大切そうにポケットにしまうと、さっき歩いていた並木道の対岸に向かって橋の続きを渡り始めた。

「歩いてたほうが寒くないよね。それか、どこかお店にでも入ろっか?」
「それはいいが……さっきの話、なんなんだよ」
「さっきの話って?」
「俺みたいになりたかった、とかいう話だ」
「ああ……」

 橋を渡りきると、川沿いの遊歩道は対岸とは対照的にひっそりとしていた。こちら側にも桜並木が続いているが、照明も屋台も設けられていないため人出は皆無に近い。レンガで舗装されたその道を歩きながら、鳳は話を続けた。

「ちっちゃいころ、俺ずっと日吉に憧れてたから。あんなふうに強くて芯のある男になりたいって思ってたよ」

 桜の枝の振れる音さえ耳に届くほどの静けさのなかで、鳳の柔らかな声は夜霧みたいに闇にとけた。憧れという言葉を聞いて、俺はあのとき見た鳳の背中、四年前に見知らぬ男に怒鳴られてひどくショックを受けていた幼い少年の後ろ姿を思い出していた。もしかしたら俺もあの後ろ姿に憧れていたんじゃないだろうかという思いが胸をよぎった。あのときの俺は人の悪意にさらされて傷ついた鳳の表情を見ているのがつらかった——けれども同時に、その傷心に憧れていたのかもしれないと。

「……でも、やっぱり俺は日吉とは全然違うから。自分は絶対にあの人にはなれないって分かったときに、憧れから恋に変わったんだと思う」

 鳳はそう言って笑った。俺は胸が詰まった。大量の桜の花びらに埋もれて窒息したらこんなふうなのかな、と思う甘やかな息苦しさだった。

「もちろん今だって憧れる気持ちもあるけどな。ただ、自分とは違うからこそ惹かれるんだってことも分かったから……」

 俺の右手は闇を掻き、カットソーの袖から覗く鳳の白い手を握っていた。鳳は露骨に驚いて目を見開いた。手のなかに収めた温かくて柔らかいものの感触、苦しいほど愛しい男の肉体の手ごたえは一瞬のうちに俺の全神経を溶かした。手の先だけでは全然足りなかった。

「ひ、日吉……公衆の面前でこんなことしない、って言ってたのに」
「……“公衆の面前”じゃないだろ、ここ。誰もいないし」

 と答えるが早いか、正面から走ってきた自転車が脇を通りすぎていった。すれ違う瞬間、運転手の男が俺たちの手元を無遠慮に凝視してくるのがわかったが、手を離したりする気にはならなかった。鳳は不安そうに俺を覗き込んだ。

「ほら、完全に無人ってわけじゃないよ? ……今の人、絶対こっち見てたし」
「いいよ、もう。それよりお前、時間まだ大丈夫か」
「えっ、うん、大丈夫……うちの親、日吉のこと完全に信用してるからさ。日吉と花見だって言ったら門限とか何も言われなかったよ」
「……いや、今そういうエピソードはいらねーんだけど」
「え、どういうこと?」

 鳳の家族の顔が頭をよぎる。彼らの大事な一人息子をひとけのない場所に連れ込もうとしている今の自分を客観視すると、やはり若干の罪悪感は湧いた。しかしその程度で消える熱ではなかった。

「すぐそこに公園あっただろ。ドームみたいな遊具のある」
「ああ……昔よく遊んだよね、あの中に入ったりして」

 俺は鳳の手を引いてその公園まで歩いた。道中では何人もの人間とすれ違った。公園の中央に鎮座する大きなドーム型遊具の内部の空洞に入ると、土と砂の匂いが身を包んだ。鳳は天井に頭をぶつけて「痛っ」と声を上げた。

「だ、大丈夫か」
「あはは、大丈夫……ここ、前はもっと広かったのにな」
「デカくなりすぎたんだよ、お前が」

 俺はドームのすみに腰を下ろしながら鳳の体を引き寄せた。鳳は遠慮なく俺の上に倒れ込んできた。

「日吉、もっと小さい彼氏のほうがよかった?」
「そうは言ってないだろ」
「……」
「な、なんだよ、その顔」
「……」
「……いや、その……。……だからっ、デカくても小さくても、どっちにしろお前しか考えられないに決まってる!」
「うん」

 俺にまんまと思惑通りのセリフを言わせた鳳は、満面の笑みを浮かべて俺の頬にくちづけた。それから俺たちは互いを抱きしめ、小さなドームの中で砂まみれになるまで求め合った。借りたカーディガンが必要なくなるくらい体がほてり、大量に汗をかいて、顔や首はキスされすぎて唾液でべたべたになった。決して綺麗な状態ではないのに、恋人が俺を欲しがって目を潤ませるたびに俺の心は清浄な光で満たされていった。

   ***   

 花見を終えて帰宅した直後、二十一時ちょうどに鳳から電話があった。橋の上で撮った例の写真が気に入ったので、俺の顔が写らないように加工したうえでSNSに載せたいという話だった。承諾して通話を切り、数十分後にSNSをチェックすると、その写真はすでに鳳のアカウントから投稿されていた。

 提灯や屋台の明かりに照らされた夜の桜並木と、その祝祭的な光を反射させてきらめく川面。その川にかかった橋の上で、ぶかぶかのカーディガンを着せられた俺が赤い欄干にもたれて立っている。〈友達とお花見〉というキャプションとともに投稿されたその写真には、〈彼シャツならぬ彼カーデ?〉〈どう見てもただの友達ではない〉〈末永くお幸せに〉などのコメントが続々と寄せられ、鳳の普段の投稿に比べて格段に伸びたという。

[24.01.08]


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